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僕のオタク・サブカル思い出(8)

  オタクバッシングが真っ盛りの89年頃から、僕は兄の影響で深夜ラジオ番組を聴き始めます。沖縄での僕の同世代で当時人気だった番組といえば・・・当時ラジオ聴いてた!っていう人だいたい10人くらいに何聴いてた?って質問すると、みんなROKの「へのへのうしし」の方を挙げるんですけど、僕はRBCの「ラジオジャック」の方だったんですよねえ。

僕のオタク・サブカル思い出(7)

  そんなこんなで、父からもたらされたPC98と次兄が手に入れたPCエンジンで、当時的にはかなり充実したゲームライフを送っていた僕なんですが、そのあたりの時期に僕の、そして日本中のオタクの生き方に大きな転換期をもたらす大事件が起こります。  「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」と後に称されるその事件は、1988年から1989年頃に起こった一連の事件で、犯人である宮崎勤の人物像をめぐって各メディアが「犯人はおたくだった」という報道を繰り返したことで全国的にオタクコミュニティへのヘイトが高まった時期がありました。   「おたくは現実と空想・妄想と犯罪行為の境界が曖昧で、明確な規範意識の欠落が犯罪に及んだなどとされ、当時の代表的な報道番組で有ったニュースステーションでは実物大の宮崎勤の部屋をスタジオ内で再現して過剰報道した。」 ( Wikipediaより引用 )ということで、日本全体でまっすぐなまでにオタクをバッシングする空気が醸成されてしまったため、元々大手を振って趣味の話をすることができなかったアニメ愛好家等は完全な日陰者として扱われ、コミュニティも世間の目を隠れるように活動せざるを得なくなっていきます。  「沖縄オタククロニクル」にもあったとおり、当時は大人になっても子供の頃のおもちゃや子供向けだと認知されていたアニメ等に入れあげる人たちを「おたく族」と括っていたところに起こった事件なので、みんなまとめて「犯罪者予備軍」という目を向けられてしまうようになってしまいました。多分今の30歳前後くらいまでの人は体感したことがないでしょうが、いやマジでオタクとオタク趣味は「犯罪の入口」くらいまで貶められたことがあったんですよねえ。  あまりに情報と物量に乏しくて日常的に飢えており、ちょっとの情報や物資に群がっていく沖縄のオタクは、おそらく関東圏のような都会よりも悪目立ちしてしまっており、この事件をきっかけに一気に肩身の狭い思いをすることになりました。学校でもメジャーな漫画等の話は出来ても、本当に好きなものがオタクっぽいものだと口にすることが憚られるような雰囲気はあって、そのため学校内でそういう友達を見つけることがさらに困難になりました。ただでさえ生きにくいのに、好きなものを堂々と好きと言えないのは本当に辛いものです。  僕もあの当時、ゲームのことばかり考えていた僕に向...

僕のオタク・サブカル思い出(6)

  僕は小学校4年生くらいまでは、単に小太りで運動が嫌いな小生意気という程度の何も取り柄のない完全なモブという風体でしたし、全国でも平均以下の学力しかない沖縄においてトップクラスに学力の低い地域でしたので、年齢が二桁に届くまではその見た目でイジられ倒す役になってました。

僕のオタク・サブカル思い出(5)

  僕は一応オタクだという自認なんですけど、実際のところはオタクっていうほどのめりこんだものって意外に無くて、しかも今僕の活動の中心は音楽の方なので、他の人に自分のパーソナリティを説明するときは「オタクの生き方で趣味趣向はサブカル」という風に表現しています。というわけでここからは僕と音楽について。

僕のオタク・サブカル思い出(4)

  6歳の頃にファミコンが我が家にやって来て以降、僕は家でゲーム三昧の日々を送るわけですが、じゃあゲームは家でだけやってたのかというとそんなわけはなく、あの当時はインベーダーハウスからのゲームセンター文化がどんどん広がっていった時期だったので、僕も出掛け先ではまっさきにゲームコーナーへ向かっていったものでした。というわけでここでは僕が小学生まで(~90年くらい)あたりの記憶を書いてみます。

僕のオタク・サブカル思い出(3)

  1978年6月の販売開始以降、とんでもない勢いで売れ続け社会現象を巻き起こした日本最初の大ヒットゲームといえば「スペースインベーダー」。僕の生まれ年の歴史に刻まれたインベーダーブームですが、当然ながらブームの頃は乳児なんで体感することはできませんでした。  僕が覚えている最初のインベーダー体験は、1980年に発売された「 テレビベーダー 」でした。ギリギリ記憶にあるんでおそらく4~5歳の頃には遊んでいたはずで、兄弟で交代しながら遊んだような記憶も無いんで多分兄が飽きちゃったものを僕が遊んでたっていうことなんではないかと思います。  実家は最大四世代で暮らしており、母屋と隣の増設分があって結構な部屋数があり、テレビも4~5台あったので、そのうち一台につながっていたテレビベーダーを頻繁に遊んでいた記憶があります。居間の隣に曾祖母の部屋があって、その部屋のラジオから流れてくる八木 政男の「民謡で今日拝なびら」という声を聴きながらやってたなあ。  もうひとつ、幼少の頃にめちゃくちゃハマってたのはLCDゲームの「 スクランブル 」でした。これの大元であるゲームがコナミのスクランブルだったということは大人になって初めて知ったくらい別物のゲームなんですけど、あの独特のフォルムとギラッとしたLCDの光、味わい深い音は今観てもワクワクしますねえ(YouTubeでプレイ動画が見られるので検索してみてね)  まあそんな感じで生まれたころには手元になんかしらのデジタルゲームがあったわけなんですが、そんな我が家に次なる波がやってきたのは1984年のクリスマスのことです。  家からちょっと離れたショッピングセンターで、両親と僕ら兄弟3人はクリスマスプレゼントを買うためにおもちゃコーナーを訪れました。僕は連れられて行っただけなのでそのときの様子はうっすらとしか覚えていないんですが、後年兄弟や親から聞いた話によると、そのとき狙っていたのはエポック社の「スーパーカセットビジョン」だったのにたまたま売り場に無かったため、代替品として「ファミリーコンピュータ」を買ったということでした(どうやら世間的には逆でファミコンが品薄なのに対してスーパーカセットビジョンが代替品として買われていたという話みたいですね)  実家は家族で食事をする部屋は台所と繋がっており、それとは別に居間があったんですが、フ...

僕のオタク・サブカル思い出(2)

  僕が物心ついてから小学校を卒業するくらいまでの間、二人の兄はそれぞれにジャンプ(長兄)とマガジン(次兄)を分担して買い、それをみんなで回し読みしていました。また当時はラジコンブームとガンプラブームもあったのでコロコロコミックとコミックボンボンも不定期でしたが家に転がっており、漫画に関しては幼少期からかなり恵まれた環境にありました。僕の同級生はアニメでアラレちゃんを知りジャンプでドラゴンボールの連載に徐々に乗っていくような時代でしたが、僕はそれよりも少し上の世代がハマっていたキン肉マンや北斗の拳を読んでいたし、ラジコンボーイでサンダードラゴンとかに憧れたりもしていました。ちなみに長兄はその頃にキャプテン翼の第一話を見て衝撃を受け、そのままサッカーにのめりこんでいくのでした。