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僕のオタク・サブカル思い出(35)

  昔開設していたウェブサイトに書き散らしていた当時の日記を読み返していて「これってこの時期か!」って思い出した話を。  何度か書いてるかもですけど、この時期のクラブにおける「テクノイベント」って、大体はどこに行っても良くてハードハウス、場合によってはダッチトランスで、ハードミニマルに心を奪われていた僕にはちょっとパンチが足りないなあという感じでした。ある年のクリスマスに沖縄市の「クラブピラミッド」(旧ディスコピラミッド、1954年開場のピカデリー国映という映画館を改装して85年~86年頃にオープン。現在はすでに閉店。)でクリスマスパーティーでテクノやるってんで遊びに行ったら、DJが出来合いのDJミックスを流してブースから居なくなるという瞬間を見てガッカリ、なんていうこともありましたね。  2000年7月、僕は来兎さんと一緒に国際通りに当時あったGET HAPPY RECORDSというレコ屋さんに向かいました。目的は「自作のCDを置かせてもらう」です。以前より2つ置かせてもらっていたんですが、毎回ドキドキなので今回は付き添い込みです。  ちょっと遡るんですが、ここで置かせてもらったカセットやCDのおかげで、ネット上とはまったく別のリアクションを貰うことが度々ありました。当時は個人情報の感覚が薄くライナーに普通に自分の住所書いてたんで、時には奥付だけ書かれたカセットテープが送られてきて中身がゴリゴリのナードコアだったり、ノイズというか独特のミックスダウンで聴きづらいけどやりたいことは伝わって面白いインダストリアルなテクノのテープが送られてきたり・・・なんか当時からテクノやってるやつってみんなコミュ障だな! でもなんか妙な連帯感から、それぞれに感想のお手紙を送った記憶があります。みんな元気にしてるかな。  話を戻します。店内に入りカウンターにいたオーナーに「すみません、自作のCDを置かせてほしいんですけど・・・」と話しかけCDをお渡しすると、それを見てオーナーが「あれ、君ってこないだFMたまんの番組に出てたよね?」  「FMたまん」は糸満市のコミュニティFMで、どういう経緯だったかは失念しましたがその年の5月にお呼ばれして曲作りの事などについて話したりしていたのでした(当時のログによると2000/05/11放送だそうな) その時の番組のパーソナリティとオーナーが...

僕のオタク・サブカル思い出(34)

  前回の話からちょっと遡って99年の7月、誕生日の勢いにまかせて当時の僕はついにPC98からDOS/Vマシンへの移行を図ります。世はすでにWindows98が席巻しており、ソーテックがiMacそっくりのPCを発売してappleからめっちゃ怒られたあたりですね。  その頃まで使ってたWin95の乗ってるPC98ではもうスペックがかなりキツかったことと、ようやくバイト等で自分のお金が使えるようになったこともあり自分専用のPCが欲しい!という流れで、当時最も安価で評判もいいCeleron 300Aを選択(300MHzをオーバークロックさせて450MHzにするのが流行ってました)、拡張性も考えて結構でっかいタワー型のケースと奮発しました。  で、Win98搭載のDOS/Vに乗り換えたことで何が起きたかといえば、ついにMIDI音源の縛りから解放されたという点がめちゃくちゃ大きかったんです。  高校生から浪人生くらいの頃はPC98とMIDI音源をRS-232Cケーブルで繋ぎ、他のMIDI音源はそれぞれMIDIケーブルで接続したうえですべての音源に電源を入れ、PCのシーケンサで各機器をコントロールする流れでした。最終的に僕のMIDI音源は自分で買ったSC55mk-2、Wさんから譲ってもらったMU80に加え、来兎さんのおさがりのSU10というサンプラーの3台構成になり、特にSU10のおかげで声ネタも使えるようになって、環境的にかなり強力にはなっていました。  ただ、サンプラーの方は波形ファイルの編集をSU10のパネルで行う必要があったんで編集で結構手間取るということが多かったのと、内蔵メモリの制限があったので音を厳選する必要があったんで、気軽に使えるとはいえ結構手間のかかる機器でした。  DOS/Vに移行したことで、オンボードのサウンドチップでもPCM音源が使えるので、PC上で波形ファイルが編集できるようになったことがまず大きな変化なんですが、もう一つの大きな変化が「レコンポーザから別ソフトへの移行」です。  レコンポーザは元々PC88/PC98用ソフトなので、DOS/Vに移行すると使えなくなってしまいます。まあその頃にはすでにWindows版も発売されていましたが、せっかくDOS/Vに移行したんなら、ということで僕が使いだしたのが「MODトラッカー」です。  MODはホ...

僕のオタク・サブカル思い出(33)

  99年から2年間専門学校に通い情報処理の勉強をしつつ(その時の講師がCOBOLの人だったのは良かったけど「お前たちが卒業する頃に2000年問題があるからな、銀行系はCOBOL理解してないと何もできないんだからしっかりやれ!」っつっててダメだこりゃと思ったりしつつ)、コンビニでバイトとかしつつ、気が付くと卒業しちゃってました。後にそこで習得した技術と全然関係ないとこに就職するんですが、まああれはあれで楽しかったな。学校のPCに勝手にBM98入れてこっそり遊んでたりしたし。  在学中にインターン的なの行ったけど馴染めなくて社会的にダメ人間であることを痛感させられ、何も決まらないまま卒業し、とはいえ何にもしないわけにもいかないだろうということで、当時北谷町にあったPCショップにバイトとして潜り込むことになりました。  当時は空前のDOS/Vマシンブームで、インターネットやるなら自作マシン組むでしょ的な空気があった頃でした。同世代くらいのには「Celeronのオーバークロックがめっちゃ流行ってた時期」と言えば思い出せるあの時期ですね。当時のCeleron好きだったなあ、CPUがファミコンのカセットみたいに挿せたんですよ。  そして当時は北谷町にそういったPCショップが国道58号線沿いに大小合わせて4~5店舗あった時期でした。また沖縄市ではコザ高校近くからコリンザ1階にベスト電器コンピュータウンが移転したあたりだったと思います。あの当時、かそのさんが「沖縄PCホットライン」というサイトを運営しており、個人的趣味で各ショップを訪れパーツの値段比較表を掲載していて、自作PCを作るオタク達はほぼ全員そこにお世話になってたと思います。あれから25年、現存してるPCショップはGoodWillだけですねえ(元々はパソコン工房だった)  僕がお世話になってたショップは土地柄もあって外国人向け(というか米軍人向け)のお店で、店内表示も円とドルの併記になってました。実際お客さんも半数以上がアメリカ人で、僕は全く英語喋れないんで接客はいつもおっかなびっくり。社長は日本人でしたが渡米期間が長かったらしく当然のように英語ペラペラ。あと当時の副社長は「マンガに出てきそうな大陸の人」そのまんまの人でした(お金に厳しい以外はめちゃ良い人でしたよ)  配置された部署の先輩は5つ上のお姉さまで、英...

僕のオタク・サブカル思い出(32)

  沖縄の同人サークルNEXTは、女性が8割を占めていた当時のサークル参加者の中でも異彩を放つ「男性のサークル」かつ「出るときは確実に新刊があるサークル」でした。特に後者って、便せん等のグッズを置いてたりペーパーを置いてたりが普通だった中で実は意外に少ないんですよね。  そのNEXTに、96年あたりから新しいメンバーとして「サガヲ」さんが加わりました。経緯は僕も詳しくないんですが、独特の絵のセンスと不思議な語り口に加え、ゲームのプログラムが書けるという点が当時的には稀有な存在でした。  97年に達名が閉店したのち、NEXTは某所に「NEXT秘密基地」なる拠点を立て、そこに機材を持ち込みゲーム開発を始めます。  秘密基地はNEXTメンバー以外は基本的に立ち入りに許可が必要で、初期の頃は気軽に「行っていい?」って言えるほどの立ち位置ではなかったので、中の様子の詳しいところまでは把握していません。ただ数回訪れたことはあり、だだっ広いポンリュームの部屋に段ボールやビニールゴザが敷かれ、そこに数台のタワー型DOS/Vマシンが並んでました。僕が行った日は98年のお正月で寒い時期だったのでメンバーがPCの裏に回ってファンで暖を取ってたのはよく覚えてます。なんか文章だけで説明するとアメリカ人がガレージで起業するみたいな話だ。  NEXTのウェブサイト上で、サガヲさんはミニゲームを定期的に作っては発表していました。四方八方からやってくる敵弾を避けるだけのシュールなゲーム「戦場の娘」や今でもファンの多いスト3のブロッキングの練習のために作られたゲーム「OQR」など、独特のビジュアルとマイクで直接吹きこんだBGMがクセになる面白さで、じわじわと人気を得ていきました。その裏で、のちに代表作となる横スクロールシューティングゲーム「ウィザーズスター」の開発が進んでいました。構想自体は96年末くらいからは始まっていたと思います(その頃にマエカワさんに主人公の原案を見せてもらった)  ウィザーズスターは1と2(正確には無印版と2nd)があって、1の方は後日ウェブサイトの方で公開されたんだったかな。その際の開発現場には僕は殆ど立ち合えていなくて、目撃したのはほぼ完成しているバージョンで、ハムスターからとんでもない量の弾幕が放たれているシーンで大興奮してましたねー。  2の開発が始まった頃に秘...

僕のオタク・サブカル思い出(31)

  以前にも書きましたが、僕はダンスミュージックが大好きで、その中でもテクノとハウスに傾倒しています。今では曲を配信しつついろんなところでDJをさせていただいてますが、そこに至るまでの話をちょっとだけ。  多分97年~98年くらいだと思うんですが、僕は地元の同人誌即売会に自分のCDと当時比較的手に入りやすかったテクノのCDのレビューをまとめた同人誌をもってサークル参加しました(今考えても無謀すぎるし実際全然出ていかなかった)  その際に、先日の同人誌即売会の回で書いたTさんのサークルでTM Networkのツアーパンフで盛り上がったりしてたわけですが、同日にサークル参加されていた方でキレイな絵の同人誌と共にハウスのDJミックスをCD-Rにして配布されていた方がいて、DJミックス?!こんなとこで?!と大興奮。もちろん内容も素晴らしく、当時ハウスというジャンルは知っていたもののブラックボックスで情報が止まってた僕には宝箱のような内容でした。  そこからちょこちょこと交流があり、後日その方が那覇市久茂地のDJができるバーに店員として居るという話を聞きつけ早速おでかけ。半ば押しかけの状態でしたが生でDJを聴かせていただき、音楽の話も聞かせてもらったりして、二十歳そこらの僕にはかなり刺激的な体験でした。それ以来僕はその方を「DJの師」とすることとしました。その節は本当にありがとうございました。あのとき「ハウス作ります!」って息巻いてたけど実際作ると難しいっす・・・ 十数年後にボカロ使ってほぼネタみたいな曲作った 以外は2ステップとハードハウスしか作れなかったな。  ちょうどそのあたりの時期の、ビートマニアが世間でもかなり認知し始め音ゲーを中心にプレイする人も現れ始めた頃に、那覇市国際通りに当時あった「BUMP」というクラブがわりと頻繁に大物DJを招聘してパーティーを開催してました。僕はそこで Ken Ishii 、 Hiroshi Watanabe 、 Captain Funk 、そして 石野卓球 のDJを生で見ることができました。  ご存じない方に説明すると、まず前者のKen Ishiiは日本におけるクラブミュージックとしてのテクノの黎明期から日本人としてイギリスR&S Recordsから曲をリリースしていた所謂「東洋のテクノ・ゴッド」と称される方ですね。後...

僕のオタク・サブカル思い出(30)

  97年末ごろ、友人から「宜野湾のイーグル2(国道58号線沿いにあったパチスロ店と併設のゲーセン。すでに建物ごと消失)にDJシミュレーターっていうゲームが入ったらしいぜ」という話を聞きました。この当時はDJ経験はありませんでしたが、いちおうダンスミュージックの素養はありましたので是非見に行きたいとなり、さっそくみんなでゲーセン遠征。  そこで待ち受けていたのはコナミの「ビートマニア」でした。ビートマニアはゲーム好きならもはや説明不要の、現在の音ゲー界隈の原点ともいえるゲームです。当時の筐体は5鍵盤+右側ターンテーブルの構成で、最初のバージョンは全9曲、しかもステージ事にジャンルの縛りがあり、判定も結構シビアでした。最終ステージに待ち構える「20,November」の難しさは何度も泣かされましたね(でも曲の良さがそれに勝っていた)  まあ正直、最初のバージョンは曲数が少なかったうえに難易度も高めで、おいてるゲーセンも結構遠かったということもあって数回しかプレイしたことはありませんでした(内心「いやDJってこんな鍵盤使わんよ」みたいなのもあって若干バカにしてたのはある)  数か月後、沖縄市の「ジョイジャングル」というゲーセンにビートマニアの次のバージョン「2ndMIX」が稼働していたので久しぶりにプレイしてみたら、曲が3倍くらいに増えてたうえ、収録されていた曲の中でもひときわ「OVERDOSER(driving dub mix)」の出来が異様に良くて、ちょうど「BERLIN TRAX」(石野卓球)でインダストリアルなテクノに目覚めていた僕は強烈なパンチをもう一発浴びたような気分でした。以降、僕は曲を聴くために音ゲーを遊ぶようになります(今でも続いてるので、もうそろそろ30年くらい音ゲーやってますね・・・)  初代ビートマニアが稼働開始した頃のゲーセンなんですが、格ゲーブームの絶頂期から少し落ち着いたくらいのところで、その他のトピックだと「怒首領蜂」のヒットに代表される所謂「弾幕系」シューティングゲームが猛威を振るい始める頃です。ゲーセンはまだまだレバー+ボタンのアップライト筐体が大部分を占めていて、店の外側にクレーンゲームとプリクラが稼働しており、格ゲーブームの最初の方と比べると段違いに明るい雰囲気に変わっていました。  その中にやってきた音ゲーなんですが、ゲ...

僕のオタク・サブカル思い出(29)

  高校卒業して浪人生になっていた97年頃、我が家についにWindows95が稼働するパソコンがやってきました。当時はまだPC98シリーズで動かしていて、MS-DOSのランチャーでWin95を起動してましたけど、その日から僕も晴れてWinユーザーとなったわけです。  Windowsがやってきた、ということはつまりインターネットブラウザが使えるわけで、やっとインターネットに接続できるようになったんですね。曲だけは先行して2年くらい前から置かれていましたが、その頃にようやくブラウザで自分の曲がどのように配布されているのかを目にすることができました。技術革新!  その当時はNiftyServeのインターネット接続サービスを使用していました(関係ないんですがNiftyは当時アメリカのCompuServeに接続できるサービスがありましたね。一回も使ったことないけど。) あの当時はISDNすらなかったので、画像表示が上からじわじわやってくるというインターネット老害あるあるもこの頃に体験してます。  再三書いているとおり、これまでパソコン通信は特定のホストに直接接続するのが当然の世界だったので、プロバイダに接続するとURLさえ知っていればどこまででも行けるといういわゆるワールドワイドウェブ(WWW)の概念を理解するのにちょっと時間がかかったのを覚えてます。  それと同時に、「特定のホストで特定のユーザーと仲間内の会話を楽しむ」という楽しみ方が普通だったものが、突然全世界が接続できる世界に放り出されたっていう感覚があって、しばらくはなんだか居心地が悪かったですね。  ちょうどこのあたりで、僕がアクセスしていたホストが閉鎖することになり、そこの常連がみんなIRC(インターネットリレーチャット)に移行するっていう話をしていた頃で、新しい技術にワクワクしている常連たちを横目に僕はちょっと居場所を追い出されたような気持ちになっていました。  思えば、あの当時からコミュニティ形成のツールとしてのネットとの付き合いは大体5~6年単位くらいで変化してたような気がします。このあたりから多くの人が自分のウェブサイトを運営するようになって掲示板を設置してましたが、そこから時代が下ると今度はウェブログ(ブログ)ブームがやってきて掲示板の文化も薄れていきました。さらにそこからSNS時代へ突入するん...