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僕のオタク・サブカル思い出(24)

 大都市圏以外のオタクはどこの地域も情報格差や物資の少なさで辛い思いをしていた、というのは沖縄に限らずどこの地方でもあるあるらしいんですが、逆に沖縄だったから(しかも中部だから)こそ恵まれていたかもしれないという話も一応あります。   高校3年生の頃あたりに定期的に遊びにくるようになったIさんという4つ上のお兄さんが、達名にあるカードを持ち込んできました。それが「マジック:ザ・ギャザリング」(以降「MtG」)でした。MtGはトレーディングカードゲームの有名シリーズの一つで、日本では「遊☆戯☆王」の「マジック&ウィザーズ」の元ネタになってたり、当初コロコロ「デュエルマスターズ」で扱われていたカードゲームとしても有名ですね。  あの当時はホビージャパンによる日本語版が出たくらいの時期でしたが、実際のところ僕たちは日本語版の方を手に入れるのが難しく、胡屋十字路から嘉手納基地向けのゲート2向けに行ったところに「Silver Bullet」というアメリカ人向けに海外のボードゲームとTCGを扱うお店があったので、そこに行って原語版を買うのが基本でした。  Iさんは高校生の時に海外留学を経験しており英語が堪能だったんで、セットに入ってるルールブックを翻訳してもらい、みんなで遊び方を確認しつつプレイしてました。こんな事例で言うのもアレなんですけど、沖縄に住んでて英語を知ってると他地域よりも生活に密着した便利さを発揮するんですよねえ。  (むっちゃどうでもいい話なんですが、クラスメイトのY君がその店の店主宅に遊びに行ったことがあるらしく、後日その件について「あの人めちゃくちゃ 人間椅子 が好きらしくて、家に居る間延々と流しててすごかったぜ」とのことでした)  店内はテーブルとかは特になく、6畳くらいのスペースで四方が商品棚に囲われた狭いお店だったんですが、そこにぎっちりと海外のボードゲームが積まれており、その一角でTCGを取り扱ってました。あとパック買ったときに不要とされたコモンカードが山積みになってて1枚10円とかで買えたんで、たまに漁ってはUnkle Istvanのバージョン違いを探したりしてましたねー。  そもそも僕は格闘ゲームもそうなんだけどこういうデッキ組んでどうこうみたいなのもまあ弱いんで、Colossus of Sardiaをメインに飛行を付与して敵を踏...

僕のオタク・サブカル思い出(23)

  僕が中学から高校生の頃に聴いてた音楽とかの話から先に。  MCハマーの大ブーム、そしてC+C music factoryの「Gonna make you sweat」(日本では「エブリバディ・ダンス・ナウ!」として有名)、あとはJames Brown is deadからのHolynoise→ロッテルダムテクノ、当時イタロ・ハウスの代名詞という感じで有名になってたBlack Boxなどなど、今の僕の基礎は大体1990年前後に固まってます。  中学に入ってテクノというキーワードに出会ったあの時期は、ソニーがイギリスのテクノレーベルR&S RECORDSのCDを大量に国内版としてリリースしたり、電気グルーヴがラジオ内で曲の紹介をするほか「電気グルーヴのテクノ専門学校」というコンピレーションアルバムで海外の様々なスタイルのテクノを積極的に日本へ紹介していましたね。  その一方で、現在では超大手レコード会社に成長したavexが89年あたりから海外のダンスミュージックを大量に日本へ持ち込み、ユーロビートやジュリアナ系などディスコのほうのダンスミュージックを展開していた時期でもありました。  高校に入学してすぐのTMNのプロジェクト終了宣言後、僕はどんどんテクノへと傾倒していきました。元々大好きだったB'zなんですが、アルバム「the Loose」を経て「SURVIVE」をリリースした頃に「B'zはいついかなる時でもカッコいいことは間違いない。ということはしばらく追っかけて聴かなくても大丈夫!」という今思えばよくわからん理論で、以降「ACTION」のツアーに行くまでの10年ほどはB'zのCDを買わなくなります。  僕がテクノのCDを買う場所は主に2つ、当時胡屋十字路のタイトーパセオの隣にあった「照屋レコード店」と、那覇市国際通りにあった「高良レコード店」です。そしてテクノ大好きな僕にとって都合がいいことに、どちらもアメリカ直輸入のCDが結構な量あって、特にケンイシイの「EXTRA」あたりの一連のシングルシリーズは日本盤と本国盤を選ぶことができるという大変ありがたい環境にありました。  中央パークアベニューからすこし外れたところにあった中古レコード屋さんでは、おそらく嘉手納基地経由で沖縄に持ち込まれたであろう海外盤も沢山あったんですが、当時めちゃ...

僕のオタク・サブカル思い出(22)

  僕が中学2年生の頃くらいから、ゲーム業界には「3Dグラフィック」という新しい波が押し寄せていました。1992年セガからリリースされた「バーチャレーシング」と、翌年登場した「バーチャファイター」によって、ゲーマーたちはゲームグラフィックの新時代がそこまで来ていることを実感していたのでした。  特にバーチャファイター2は圧倒的なグラフィックの進化を見せ、そのプレイヤーたちの対戦の様子がテレビ等で紹介されるなど、ゲーマーだけでなくサブカル層にもファンを増やしていきます。  その流れの中で、家庭用ゲーム機では任天堂のスーパーファミコン・セガのメガドライブ・NECのPCエンジンの3勢力世代だった時代を終わらせる次世代機「プレイステーション」(以降PS)「セガサターン」(以降SS)が1994年末に登場します。PSは当初「これまでゲームに触れたことのなかったライト層へのアプローチ」を展開し、逆にSSはゲーマー向けのソフトを大量に投下したことで住み分けが出来、1年半も後発になってしまった任天堂のNINTENDO64は最終的に売り上げで大きく差をつけられることになります(ただ、任天堂は同年発売したポケモンによって携帯ゲーム機の方でさらに一段階躍進します)  そんな話はさておき、僕が中学生から高校生の間に(個人的には)ゲーム音楽業界でとんでもない革新的な作品が生まれています。  まず、1992年に稼働開始したアーケードの縦STG「F/A」。いわゆるジュリアナ系の中でもかなりハードなタイプの音楽が採用され、しかもそのクオリティも一級品。アーケードアーカイブスで遊べるから全国民買え。  その翌年はナムコのレースゲームの金字塔「リッジレーサー」が稼働開始します。F/Aの路線を継承するダンスミュージックは、この時点ですでに完成されたものになっていました。中でも「ROTTERDAM NATION」は、前年にベルギーで生まれたロッテルダムテクノというスタイルを日本の持ち込んだ非常に早い例として語り継がれています。アーケードアーカイブスで遊べる(以下略)  以降「2」「レイヴレーサー」と続くリッジシリーズの超高クオリティのダンスミュージック、他方ではレイフォースの流れを組むテクノを基調としたゲームミュージック(サイヴァリアやライデンファイターズ等)など、テクノ好きにとってはここから200...

僕のオタク・サブカル思い出(21)

  高校生になってからもパソコン通信上でゲーセンとは別のコミュニティに出入りしていました。Sさんのホストから同じく沖縄県内の若い人があつまるBBSに移行し、比較的近所に住んでいたNさんという5つ上くらいのお兄さんとつるむことも多くなってきました。  あまりにもライフステージに関係した話が多くなってくるので省略していくんですが、やれ「好きな子がいる」とか「こういうことで悩んでる」みたいなことはどっちかというと面と向かってない分ネットのほうが話しやすく、一応高校生らしい青春も多少はあったんですが当時としてはかなり特殊だったかもしれません。  また、当時のホストのみんなでペンションを借りて泊まり込みで遊びに行くとか、みんなで海に遊びにいく、みたいなことも何度かありました。当然のように僕が一番年齢が下だし運転免許も持ってなかったんで、家が近い人のお力を借りつつ参加させてもらってました。ほんとみんな優しかったな。  そういえばこの頃、初めて地元のBBSに接続したときに聞いていた「同い年の子」と会う機会がありました。同い年の視点でもめちゃくちゃ聡明で理路整然と話すタイプの、なんなら先輩なんじゃないかってくらい大人な感じの男の子でした。彼もその日以降交流を持ったことないけど、今何をされているんだろう。  高校2年生くらいになると、地元のホストと並行して全国区の音楽系草の根BBSにアクセスするようになります。久しぶりに過去公開していた曲データの中のドキュメントを読み直して思い出しましたが「 ゆいNET 」というところでした。Wikipediaに載ってんの凄い!  当時はPCで聴く音楽といえば「同じ機種シリーズで制作した内蔵音源で再生できるデータ」「同じモジュールを持ってる人が作ったMIDI演奏データ」のどっちかで、そのころは圧縮波形ファイルなんていうものはほとんど流通していませんでした(なにしろ保存できるのが1.44MBのフロッピーディスクか、100MB以上だとかなり高価になるHDDしかない時代だった) また当時のMIDI音源用の演奏データで人気があったのはポップスのコピー(当然ボーカルは入れられないのでカラオケ音源みたいなの)で、音源を持ってる人はたくさんのホストを渡り歩いてデータを収集してたんですね。  僕もその流れで色々なホストを経由してゆいNETにたどり着いたんです...

僕のオタク・サブカル思い出(20)

  コナミからリリースされた「ときめきメモリアル」は、1994年にPCエンジンで発売しマニアからの人気を獲得、翌年の1995年10月のプレイステーション(以降PS)版が話題となり以降シリーズ化していく人気タイトルです。  94年の夏頃にPSを手に入れたものの、ゲーセンで格ゲーのほうが魅力的だったのであまり稼働させていなかった時期だったんですが、いろんな人からおすすめされてお借りしてプレイしたら、まずゲームとして面白かったうえ思春期だったこともあり完全にどハマりしてしまいました。ちなみに当時の僕の推しは紐緒結奈でした。  ときメモ、まず育成ゲームとして完成された内容でしたよね。細かいゲームの面白さは専門の記事にお任せするとして、仲良くしたい女の子とだけ関係を築きたいのに一方的に好感を持たれては爆弾が爆発して・・・みたいなのを経てどうやってパラメータを調整するかとか、そのあたりのバランスがとても良かった。  で、僕はアニメ全然見てなかったのと、いわゆる恋愛モノは「自分がそういう市場では見向きもされない」と最初からあきらめてたんで、マンガのキャラの誰が好き~とかいうのも感覚が薄めだったんですが、そういうのもときメモで完全に開いてしまいました。いかにもアニメ声っていう高い声の人が少なめだったのも良かったです(今でも結構苦手なので) それとシナリオがラブコメ色が強かったのも抵抗感が薄くなったのが良かったなと。  一緒に同人誌を作ってたY君も当然ハマっていたんで、二人で「じゃあ今度はときメモやるか!」というノリになり、僕はいつも以上に気合をいれて漫画を描こう!と数ページ描いてみるんですが、まあ多少は成長してるけど絵が相変わらずひどい。これだと読む側がキツイよなあと思案しているとことで、あることを思い出しました。  さかのぼること中学2年生のあたり。僕に電気グルーヴを進めてくれたC君も、ローカル深夜ラジオ「ラジオジャック」のリスナーでした。ですが彼は同い年にしてはやたらと番組の内容に詳しく、さらに幅広い深夜ラジオの話もいろいろ聞かせてくれるのです。C君すげーなと思ってたある日、何気なくC君から「うちの兄貴、ラジオネームがFK(有名漫画のキャラから取ってるラジオネームで混同しそうなのでイニシャル表記)なんだよね」という話を聞かされてびっくり。その人、番組内でも結構有名なリス...

僕のオタク・サブカル思い出(19)

  達名に通い始めてひと月ほどした1994年10月、Y君から「俺たちも同人誌作ってみない?」と打診されます。NEXTの活動を見て自分もやってみたい!と思うのは自然なことですよね。僕もその頃は同人誌を作るのにすごく興味があったので、二つ返事でOKしました。  沖縄の同人界隈に住まうオタクの多くは、同人誌即売会の事を「イベント」と呼んでいました。それと、この20年ちょっとくらいは沖縄で開催される同人誌即売会といえばスタジオYOUの主催する「おでかけライブ」の事を指すのが一般的ですね  僕が高校生、つまり90年代中頃の同人誌即売会は個人主催の小さなイベントとして開催されることが多く、その告知手段も「新聞の地元イベント告知欄」とか、それぞれの即売会の中で撒かれるペーパーで情報を得るのが普通でした。小学生の時にラジオジャックでVAIO主催の即売会の告知をやってたような気がするんだけど、どうでしたっけ。有識者からの情報求。  個人主催の即売会はどうしても規模をそれほど大きくすることができないため、大体は地元の公民館とかで開催してました。ということで、Y君から「10月末に〇〇〇公民館でやるらしいんだけど、まずは見に行ってみない?」とのお誘い。ということで僕もついに即売会デビューです。  日曜日、会場となった公民館には思ってたより多くの人が詰めかけており、「地元のイベントでもこんなに人来るんだ!すげえ!」と感動したのを覚えてます。それともうひとつ印象的だったのは「女の人多いな!」でした。  そもそもオタク趣味を通して人と関わることが殆ど無かった少年にとって、オタク趣味ってなんとなく男ばっかりのむさ苦しいところだろうと無意識に思い込んでいたんですが、参加者とサークル合わせても会場の8割くらいが女性なのはびっくりしました。後にわかるんですけど実は古来から女性がすごく多いんですよね。「沖縄オタククロニクル」でも言及されていましたが、今も同人界隈でも女性のパワーが圧倒的に強いですね。  ただ、サークル参加されている人の半分くらいが便箋とかペーパーとかばっかりで、本がちゃんとおかれてるサークルが思ったほど居なかったのが現実というか、まあでも漫画一本描き切るって結構大変だもんね・・・。それに基本的には女性が女性向けに作ってるものが多いわけで、賑わってて雰囲気は楽しいんだけど意外に手に取...

僕のオタク・サブカル思い出(18)

  高校1年の2学期が始まったあたりから、僕は学校近くのゲーセン「達人と名人」(達名)に足繁く通うようになります。1ゲーム20円の台(2階トイレ横に1943改があって、駄菓子コーナーで30円のビスコを買ってから遊ぶのに丁度いい)もあるし、コミュニケーションノートもあるので、これまで通ったゲーセンとは段違いの居心地の良さでした。  ある日、駄菓子コーナーの上に置いてあったラジカセのところに人が集まってるので覗いてみると、「Xの紅っぽいアレンジのラジオ体操」を作って来た!という、スト2ターボのTシャツを着た眼鏡のお兄さんが居ました。その人は後に「MELTY BLOOD」「UNDER NIGHT IN-BIRTH」の音楽を手掛けることになる 来兎さん です。  僕も音源は持ってたんで「これどーやって作ったんですか?」と尋ねると「レコンポーザってソフトがあって、それを使ってる」とのこと。レコンポーザといえば、TM Network時代にも小室哲哉が使用していたというシーケンサーです。この話をきっかけに曲の作り方などを色々情報交換できるようになり、以降の僕は来兎さんの指導のもと(ってほど細かく教えてもらったわけではないけど)レコンポーザで曲を作るようになりました。オリジナルで曲を作れるようになったのは多分半年後くらいじゃないかなあ。この出会いが無ければ僕は曲も作ってないしDJもやってないんですよね、そういう意味で間違いなく大恩人なのです。  あの時はすでに同人サークル「NEXT」を結成しており、主に同級生数人を中心メンバーとして同人誌を制作していました。このへんはうろ覚えなんですが、出会った頃くらいにマエカワさんがNEXTに合流していて、マエカワさんのマンガを中心に同人誌を作ってたんじゃなかったかな。  当時から来兎さんとマエカワの「面白いものを作ろう」という熱意は高く、当時の男性中心のメンバーによる同人サークルとしては珍しく定期的に同人誌を発行していて、そのクオリティも他サークルとは一段階上という印象でした。  ご本人たちもいろんなところでお話されてることではあるのと、僕はメンバーではなくたまたま横で目の当たりにしていたという立場なんですが、以降も僕の思い出せる範囲で当時の様子を書いてみます。  ここからは余談。その時の達名の常連の中に居たMさんから「君、もしかして〇...