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僕のオタク・サブカル思い出(中学の頃の思い出補足編)

あのSFやガジェット、ゲームに何年生で出会ったかがわかるインタラクティブ年表「SF・コンピューター技術ライフライン」を3倍に育てた。自分語りに便利なX共有機能も(CloseBox) | テクノエッジ TechnoEdge https://www.techno-edge.net/article/2026/08/05/5365.html  ・・・という記事がありまして。滅茶苦茶便利で色々思い出すのに本当に助かります。  さかのぼってみると結構抜けてるというか、単にメモとして書いときたいなっていう話をここで思いっきり書き散らしていきます。完全に趣味の話です。  中学生の頃、那覇にベスト電器系列のパソコン専門ショップ「コンピュータウン」がありました(後に沖縄市にもやってくる) 当時はソフトベンダー武尊が僕のパソコンライフを支えてくれたんですが、コンピュータウンは毎回行くたびにPC98以外のPCが沢山見られるのが楽しくて、売り場で買いもしないパソコンに貼りついたりしてましたね。  当時くらいから徐々に、これからはパソコンも扱えるようにならなきゃね的な雑な感じで中学校の授業でもパソコンを使う時間がありました。うちの中学にあったのはFM TOWNS(以下タウンズ) タウンズは富士通から発売されたCD-ROMドライブ標準搭載のパソコンで、当時としては破格の大容量のCD-ROMを利用したマルチメディアソフトが多数発売されてました(思えばマルチメディアっていう言葉が使われだしたのもこのあたりじゃないかな)  当時コンピュータウンにはパソコン通信で出会ったお兄ちゃん達に連れてってもらったりしてました。店頭では大体なんかしらデモでゲームの映像が流れていたので、学校じゃ絶対見ることのできない本気のタウンズの姿を見て興奮したり、マルチメディアソフト特化型の小型版タウンズ「FM TOWNS マーティー」の実機が展示されてるのを眺めたりしてました。  そういえば中3くらいに初めてWindows3.1を触った記憶があります。でもあのときはタスクバーが無くて、デスクトップにゴミ箱といくつかのアイコンしかなく、しかもそのアイコンをうっかり画面端に持っていくと再び画面内に戻すのが今以上にめんどくさい(本当にどこにいったか分からなくなる)みたいな感じで、MS-DOSのランチャーしか使ったことない僕にはさすが...

僕のオタク・サブカル思い出(15)

 中学生の後半あたりから「ストリートファイター2」の爆発的ヒットを景気に、ゲームセンターでの格闘ゲームブームがやってきます。中学を卒業する1994年くらいには沖縄市内にもかなりの数のゲーセンがにょきっと生えてきました。大小さまざまなゲーセンがあったことは確認してるんですが、当時の僕は学校内でじんわり浸透していた「ゲーセンに行ったらチクられる」という空気に気圧されて、地元のゲーセンにはあんまり立ち寄れていない時期でもありました(実際、以前の回で書いたポンキッキ等も店内にいるのを見られただけで「先生に報告するぞ」と同級生から軽い脅しをかけられ「店内で見たならお前も同罪だろ」と返したり)  小学生の頃の時に書いてなかったんですが、僕は10歳だか11歳だかの頃に父に強制されてアマチュア無線の免許を取得しています。なんでも父の知り合いに「小学生で免許取った子がいて、それが沖縄では最年少だって話だから、お前にも取れるだろう」とかいうよくわからん理由でした。結構苦労して取ったけど3年くらいで使わなくなっちゃったなあ。  ただ、基本的には車に搭載された無線機と自宅の無線機で「〇〇時に帰ります」みたいな報告に使ってたくらいなんですが、もうひとつの活用法として「遠出したときに個人行動が出来るように携帯無線機をもって歩く」てのをやってて、今でいうスマホの扱いで連絡とれるようにしていたんで那覇遠征の時は結構のびのびとゲーセンで遊んだりできていたのでした。この点だけは本当に助かりました。  で、那覇市国際通り、那覇タワーに併設の立体駐車場を改装してできた「ファッションシティーMAXY」の地下階にセガの直営店があって、たしか1991年くらいの時点では伝説の大型筐体「SEGA R360」が稼働してました。SEGA R360はその名の通り360度(実際には縦横回転なので720? 1080?)回転するジェットコースターもかくやのびっくり大型筐体です。あんまりにもでかい上に特殊な筐体なので、稼働開始から半年くらいは「店員に500円渡す→店員がプレイヤーのシートベルト等装着を確認し、ポケットの中身を預かる(逆さになるので小銭や鍵が落ちる事例が多かった)→プレイ開始とともに店員が実況を始める」というのが通例だったと記憶してます。後に北谷町美浜の58号線沿い(今のくら寿司のところ)にあったテクモピアに移設さ...

僕のオタク・サブカル思い出(14)

  中学の頃まで、僕は物欲はあるけど自我はあんまりない、流されまくるタイプでした。幸い身体がデカかった(身長は低いが胸板が厚いので筋肉質っぽく見える)影響でヤンチャなのに絡まれることは少なかったものの、学校では地味かつ真面目っぽく過ごすだけの日々。  部活は、兄が所属していた影響で一応サッカー部に籍を置いたものの全くついていけず、1年生の後半からは幽霊部員状態。勉強は一学年300人くらいの中で30位~50位くらいに留まれる程度にはやってたんですが明らかに数学と歴史がダメでパッとせず。普段はクラス内で中学の時から仲の良かったやつとゲームの話とか音楽の話なんかをしてやり過ごしてました。  2年生の2学期末頃、同級生の男子2人から声をかけられ「これ吹いてみて」と、唐突に金属で出来た謎の物体を渡されました。 「これ、マウスピースっつってトランペットとかを吹くときに使う道具なんだけどさ、これを口に当ててブーッって唇震わせて音出るかどうか、やってみてよ。」  よくわからないまま吹いてみると、低い音でブブーっと音が出ました。それを見た2人が僕の腕をつかんでニヤリと笑い「よし、今日から吹奏楽部だ!」などと言って僕の意見も聞かずにそのまま音楽室に連行されます。  先ほど吹かされたのは金管楽器でも低音部を支えるチューバ用のマウスピースだったんですが、先輩が受験のため部を卒業したことでパートに穴が開いてしまい、暇そうでかつ大きい楽器を支えられそうなガタイのいい男を探していたのです。完全に不意打ちで音楽室に連れてこられたものの、二人から事情を聞いて頼み込まれたことと「お前サッカー部全然行ってないんだろ、でも部活やってた方が受験に有利じゃん?」という説得に負け、その日から吹奏楽部に所属することになりました。  さて、吹奏楽部ということは楽器演奏するってことなんだけど、いや僕全然楽譜とか読めないんだけど・・・と不安を漏らすと「いや大丈夫、やってりゃなんとかなるから!」と先ほどの2人は細かいところは完全に丸投げ。そして低音部のパートは当然面識もないチューバ担当の同級生女子とコントラバスの下級生女子の2人。全く楽器演奏の経験がないのに部活に最初から後輩が居るという特殊環境もあり、どちらも結構親切に教えてはくれたけど、そもそも基礎から全く解ってなかったので「こりゃこのままだとみんなに迷惑かけ...

僕のオタク・サブカル思い出(13)

  僕が小学校高学年くらいから中学校時代にかけて、家庭用ゲーム機はもちろんですがゲーセン自体にも様々な環境の変化が訪れます。  1988年のアーケード版テトリスの大ヒット、そして1991年の「ストリートファイター2」の爆発的ヒットとUFOキャッチャーによるプライズゲームの盛り上がり、さらに1992年アーケード版「ぷよぷよ」のヒット等を経て、1995年の「プリント倶楽部」稼働開始によって段階的にゲーセンが「明るい場所」へと変貌していきます。  僕たち世代にとっては「ストリートファイター2」の登場でゲーセンでの遊び方は一変しました。今までみんなで「如何に長く遊んでクリアまたはハイスコアを取るか」というのが基本だったのが、プレイヤー同士で対戦することの面白さを与えられてしまったからさあ大変。噂にも聞くとおりインカムが徐々に増えていき、ゲーセン自体がどんどん活性化していきます。類似ゲームも大量にリリースされる中、やはりカプコンとSNKの2大巨頭が対戦台を占拠していました。  僕が初めてスト2をプレイしたのは沖縄市胡屋にあったハイテクセガの2階。スト2稼働当初は向かい合わせの対戦台はまだ無く、大体はコンパネの左右で並んでということになるんで、友達同士で仲良く(?)キャラを譲り合ってバトルしてました。あのときのハイテクセガは1階にラッドモビールがあって、2階の階段上がって左側にスト2とぷよぷとが配置されてたのと、真ん中の島にテーブル筐体の「アラビアンファイト」や「チャタンヤラクーシャンク」(漢字で書くと「北谷屋良公相君」でおなじみ)、反対側の壁に「琉球」「宇宙戦艦ゴモラ」「ピストル大名の冒険」があったような・・・。  対戦が本格化してきたのはスト2ダッシュくらいからだと記憶してるんですが、ゲームそのものの面白さもさることながら、火付け役としてアーケードゲーム専門誌「ゲーメスト」と、本来はプログラムを掲載するはずの雑誌なのに何故かゲーム記事が熱すぎる「マイコンBASICマガジン(ベーマガ)」の2誌があったのではないかと思います。どちらも全国の提携ゲーセンから集計するハイスコア記事があることでも有名でしたが、格ゲーにおいては前者は各キャラの攻略法や戦い方の基本などを解説する記事が多く、後者は対戦の熱さを伝える企画「バトル・オブ・スト2」が人気でしたね。  以降、SNKが「餓...

僕のオタク・サブカル思い出(12)

 「凄いゲームを連れて帰ろう。」ってキャッチフレーズ、覚えてる人どのくらい居ますかね。1990年に登場した「NEO GEO」はゲーセン用のMVSとアーケードゲームがそのまま遊べる家庭用ゲーム機風コンソールの2種があり、当時はショップで2泊3日ソフト1本で大体2000円くらいでレンタルできたのでした。沖縄市ではコザ十字路にあった「ロム」というショップでレンタルしてました。)  僕も一度だけレンタルしたことがあって、そのときにメモリーカードも1枚購入して「マジシャンロード」をやってた記憶があります。うちの道向かいに当時あったスーパーの入口横にMVSが稼働してて、その筐体はメモリーカード挿せる筐体だったのでたまに遊んでたなーという記憶です。あ、ここからの話とはちょっとしか関係ない前段でした。   怒涛のパソコン通信デビューを果たしてひと月くらいしたころ、掲示板でたまーに見かけるSさんというユーザーから「多分近所に住んでるんだけど、君の通ってる学校の近くでバイトしてるから今度遊びにきてよ」というような内容のメッセージが届きました。  指定のあったバイト先というのが、たしかに僕が通ってる中学校の道向かいに最近出来た中古ゲームショップでした。こないだ(前回の管理者セットアップ来客)の件もあったんでちょっと警戒しつつ、後日その店に行ってカウンターの若い店員さんに意を決して話しかけてみると「あー君が〇〇君(当時のハンドルネーム)か!ほんとに中学生なんだ!」と気さくに接してくれました。  このSさんも如何にも若者然とした細っこい当時20歳くらいで、あのBBSで周りが30代くらいのかなり年上の人しかいない所だから同世代いなくて居づらいんじゃないかなーと声をかけてくれたということでした。そして「今度来てよ」とSさんが運営しているBBSの番号をもらいました。  その日の夜、貰った番号にアクセスしてBBSにログインすると、沖縄在住の20代前後の若いオタクたちが活発にコミュニケーションをするコミュニティが形成されていました。そして「紹介されて来ました」と書き込みすると、もちろんそこでも最年少だったということもあって、常連の皆さんが温かく迎え入れてくれました。心配されていた通り、たしかに今まで接続してたBBSは野球の話とか仕事の話で全然ついていけてなかったんで、やっと等身大で話ができる場...

僕のオタク・サブカル思い出(11)

 中学2年の3学期修了式を迎えるあたりで、父が東京出張でのお土産でモデムを買ってきてくれました。モデムとは電話などのアナログとPCで扱うデジタル信号を相互に変換する機械なんですが、これで何をするのかというと「パソコン通信」です。  今あなたがこれを読んでいるインターネットは「個人の端末からプロバイダ(ISP)に接続し、プロバイダ経由でインターネットを形成するワールドワイドウェブ(WWW)に接続している」ってことなんですけど、WWWは世界各地にあるサーバー等が常時ネットワークに接続しているので基本的にいつでもどこからでもアクセスできる状態なのに対し、パソコン通信はざっくり言うと「特定のホスト(今でいうサーバー的なもの)に直接電話をかけて接続している」というイメージですね。  僕が始めた当時はホスト同士の相互接続というものはなくて、各ホストに自分でダイヤルする必要があったのと、NiftyServeのように企業体が運営する大手のホスト以外に、個人がホストを立てて公開している「草の根BBS」(当時は電子掲示板がメインだったためBBSと呼称されていた)が無数にあって、利用者の多くはそっちを使うことが多かったように思います。  モデムをRS-232Cケーブルで繋ぎ、接続用のソフト「まいと~く」にホストの電話番号をセットしアクセス開始、モデムがホストに電話をかけて向こうから「ビィーギョギョギョギョー」みたいな音で返ってきたら接続成功、みたいな感じです。僕らくらいのおじさんだとFAX送るときのアレと大体同じですね(これも下手するとこれ書いてる時点での20代は知らない可能性大なんだよなあ) で、大手ホストは何回線もあるので意識することは少ないんですが、草の根BBSは個人運営なんで「自宅の電話回線を22:00~翌朝8:00まで解放してホストを立てている」ってのが普通で、なので誰かが接続しっぱなしだと他の人は通話中でログインできない!なんていうトラブルもよくある話でしたねえ。  で、ホストと接続している間は電話をつなぎっぱなしにしている状態なんで、今のSNS使ってるノリでつなぎっぱなしにしていると後日とんでもない金額の電話料金が請求される!というのがまあ当時のあるあるでしたね。テレホマンって知ってます?  たしか当時のまいと~くには電話帳的に、当時の各地域の主要な草の根BBSも登録されて...

僕のオタク・サブカル思い出(10)

  多感だとされる中学生の時期、僕は後の自分に大きな影響を与えたものに出会いました。それは、次兄が嘉手納基地で当時開催されていたフリーマーケットで買ってきた、その頃アメリカで流行ってる曲を集めたカセットテープから流れてきた「James Brown is Dead」(L.A.Style)です。  べろんべろんの酔っ払いが路地裏で「ジェームス・ブラウンは死んだ!」と喚いていた事にインスピレーションを受けて作られたとされる、当時的な表現で言うところのハードコアテクノまたはデステクノと呼ばれる類の音楽でした。  初めて聞いたとき、あの特徴的なシンセフレーズに一発で虜になり「何この音楽?!」と大興奮してました。これまで聴いてきたTMやゲーム音楽やダンスミュージックとは一線を画す、シリアスなようで何気にバカっぽくて痛快でカッコいい曲だと感じ、こういう曲ってどう探したら聴けるんだ?とは思ったものの、買ってきたテープには曲名と名前しか載ってないし、ジャンルもわかんないし、当時はインターネット自体一般的ではなかったので、気にはなっていたもののしばらくはほったらかしにしていました。  ですが、     後日 次兄の方が「このCDヤベえぞ」と持ってきた「JULIANA'S TOKYO」にその答えがありました。日本ではいわゆる「ジュリアナ系」とされる音楽だったわけですね。そんなわけで、そのCDシリーズの中で「ANASTHASIA」(T99)とか「Out of space」(the prodigy)なども出会いました。  その頃の日本のポップスシーンといえば、いわゆる「ビーイング系」と言われるバンド等が大活躍。WANDSやT-BOLANやZARDなどがカウントダウンTVでヘビーローテーションされている時期です。僕はどうにもそっちの曲にはなじむことが出来ず、ついに中学生らしい「日本のポップスなんて聴いてらんねえよ」こじらせが大爆発します。いや当時のB'zもビーイング一派だったんですけどねえ。  中学生らしいこじらせというより単に馴染めなかったというくらいの理由で、この頃はTMNにB'zに筋少にジュリアナとなんだかよくわかんない振り幅で曲を聴き漁ります。  で、この頃に僕にとっての重要な出会いの一つがありました。僕がラジオジャックリスナーの友達とラジオの話題で盛り上が...