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僕のオタク・サブカル思い出 目次+年表

シリーズ記事「僕のオタク・サブカル思い出」目次

僕のオタク・サブカル思い出(38)

  僕自身はオタクとして、そしてサブカル好きとして、かなり恵まれた人生を歩んでいるという実感はあるんですが、そこからちょっと引いて「沖縄のオタクってこの40年くらいどうやって活動してたの?」について、僕自身の実感で振り返ってみます。  僕よりも一つ上の世代である神野オキナさんの著書「沖縄オタククロニクル」に感化されてこのシリーズをずっと書き続けているんですが、神野さんは自身の人生を「とにかく情報と物資に飢えている時代だった」と振り返られています。  現在のように大概のエンタメがネットで得られる時代と異なり、40年くらい前は情報が入ってくるのがかなり遅い(週刊誌は3~4日、月刊誌は7~10日、テレビ番組は2~3か月遅れが当たり前)という状況でした。アニメ雑誌には知らない作品もたくさん載っており、その半分くらいは沖縄では放送される予定が無いということもザラでした。とはいえ僕はあんまりテレビ見てなかったので、それを歯噛みしながら享受するっていうほどでもなかったかなあ。結構早い段階からあきらめちゃってたというのはあるかも。  逆にゲームは発売日に手に入る環境がかなり早い段階からあったんで案外不満感は無かった、ということもあるのかな。意外にゲームはわりと優遇されているというか、体験型のもの以外は実は他の地方より充実してるかもしれないっていうくらい沢山入ってきてましたね。  小学生のときに直撃したオタクバッシングの波は、正直無視できないほどに大きかったように思います。目に見えて嫌われていたのは数年程度だったけど、その数年の間に「蔑視してもいい存在」という風にされてしまったのが辛かったな。  僕が学生の頃もやはりオタクは日陰者で、僕も見た目も相まってイジられ対象ではありました。ただ僕の場合ハマってたのがゲームの方だったので、そっちで気持ちを共有できるクラスメイトが一定数いたおかげで少人数グループで難を逃れられてました。  また、勉強はそんなに出来ないけど基本的には真面目に過ごしてたのと、父に職場の人のいるとこ(=大人がたくさんいるとこ)へ連れまわされていたので、年上に対するいかにも優等生的な立ち回りは身に着けており、そのおかげで先生ウケは良く、それで目をかけてもらってたのでヤンチャなのが近寄りにくい環境になってたので、目に見えて迫害されるようなことも少なかったのは良かった...

僕のオタク・サブカル思い出(37)

  なんやかんやありまして、2003年8月に結婚し、子が生まれました。それ以降の活動については(既に20年以上前の話も含んでいますが)ログが結構ネット上で確認できるため、結婚後から現在までの活動記録と、その近辺の文化や状況で僕がわかる範囲の話をかいつまんでいきます。 同人活動:  現在もおでかけライブが定期的に沖縄コンベンションセンターにて開催されていますが、僕らが20代前半の頃のようなほぼ毎月というペースではなくなっています。また近年増えているのはオタクとあんまり関係ない物も扱っているハンドメイドのアクセサリーや小物等のブースですね。男女比はまだ6~7割程度ですが、サークル参加している男性も以前よりは少し増えてるなーという印象です。曲作ってCD売ってるサークルも少数ですが存在しているようです。Macろけって結局1回もブースに居るの見たことなかったな・・・。  実際のところ、同人活動って主戦場の半分がネットに移行しているところもあり、本を自分で作って売るという文化自体もちょっとずつ縮小化している一方で、デジタル作画環境などツール側が進化することで制作へのハードルが下がったこともあり、クリエイターの人口は増えているのかなあとも思います。そこらへんの均衡が今の県内の即売会の雰囲気を作ってるのかもしれませんね。  僕はというと、30代になって、奥様(妻のこと)の暗躍により同人サークル「ソフト闇金」を立ち上げ、2年ほど活動していました。人生初のオフセット同人誌、コミケでの頒布、ボカロCD持ってVOCALOiD M@STER参加(ウィザーズスターが縁でうちのサークルに「炉心融解」のirohaさんから差し入れを頂くというサプライズがありました)、ゲーセンのイベントやクラブイベントでのブース出展など、濃密な2年間を過ごしました。  また40手前で今後はINGRESSの同人誌を出すために僕がサークル「カビパン」を立ち上げ2冊の同人誌を制作。殆ど自分で制作するうえ2冊目はCD付きだったので地獄の作業量だったうえ売り上げは芳しくありませんでしたが、この活動を通して出会った人も多く、経験は貴重なものでした。 ゲーセン:  県内のゲーセンは個人経営の店舗がどんどん消えていき、那覇の「ゲームインナハ2」の閉店はテレビのニュースでも取り上げられましたね。現在残っているゲーセンも殆どがク...

僕のオタク・サブカル思い出(36)

  2001年、僕はようやく定職に就けることになり、長かったモラトリアム期を抜け出すことに成功しました(まあしばらくめちゃくちゃ給料安かったんですが・・・)  達名やNEXT秘密基地があった頃のように大勢で集まって遊ぶっていう機会はほとんどなくなってしまいましたが、この頃には携帯電話も標準装備だし、だいたいみんなオンラインにいるので会えてなくても近況がわかるくらいには近くにいるねっていう感じ。  また、来兎さんが2001年の10月くらいに上京するということになり「じゃあ今度の冬コミは東京行くんで泊めてね~」などと厚かましいお願いをしつつお見送りをしたのに、ひと月もしないうちに沖縄にいたときと変わらない距離感でMSN Messengerでやりとりしてたってくらいでしたね。  なお、その年の冬はボーナスを丸々突っ込んで実際に初めてのコミケ参加を果たし、その足で秋葉原に行って中古のCDJを2台買い、そのまま当時は千葉に住んでいた来兎さんのアパートに転がり込んで年越しするなど活動は多岐にわたっていました(しかも 当時仲良くしてたテキストサイトの人 もお呼びして3人で正月中雑魚寝してた)  さて2002年。僕はメインのウェブサイトを移転させ、でもそこでも相変わらず日記は書き散らすわ掲示板でグダグダやってるわであんまり変わらない日々を送っていたんですが、軽い気持ちで掲示板だったかに「CDJ買って練習してるんで、いつか人前でDJできたらいいなあ」などと書いてたら「じゃあうちでやりませんか?」というレスポンスが。  詳しくお話を聞くと、その方が主催しているパーティーの次回開催でゲストDJの枠があるので出演しませんかとの事。場所はなんと東京都目黒区自由が丘! その後なんやかんやあって、理解が追いつく前に東京でのDJデビューが決定してしまいました。  その時の旅行記がまるまる当時の日記として残されているので久しぶりに読み返してみました。そうそう、2002年7月12日に東京行きなのに、当日日本は3つの台風が襲来しており、しかもそのうち一つは沖縄の真上に来ていたのでした。とはいえ強風域のみで熱帯低気圧に変わりかけていたので飛行機はフライトを決行、なんとか無事に東京にたどり着くことができました(帰りの日も台風が襲来していたけどなんとか予定通り帰れた) 初日はゲーセンを巡りつつ、上京し...

僕のオタク・サブカル思い出(35)

  昔開設していたウェブサイトに書き散らしていた当時の日記を読み返していて「これってこの時期か!」って思い出した話を。  何度か書いてるかもですけど、この時期のクラブにおける「テクノイベント」って、大体はどこに行っても良くてハードハウス、場合によってはダッチトランスで、ハードミニマルに心を奪われていた僕にはちょっとパンチが足りないなあという感じでした。ある年のクリスマスに沖縄市の「クラブピラミッド」(旧ディスコピラミッド、1954年開場のピカデリー国映という映画館を改装して85年~86年頃にオープン。現在はすでに閉店。)でクリスマスパーティーでテクノやるってんで遊びに行ったら、DJが出来合いのDJミックスを流してブースから居なくなるという瞬間を見てガッカリ、なんていうこともありましたね。  2000年7月、僕は来兎さんと一緒に国際通りに当時あったGET HAPPY RECORDSというレコ屋さんに向かいました。目的は「自作のCDを置かせてもらう」です。以前より2つ置かせてもらっていたんですが、毎回ドキドキなので今回は付き添い込みです。  ちょっと遡るんですが、ここで置かせてもらったカセットやCDのおかげで、ネット上とはまったく別のリアクションを貰うことが度々ありました。当時は個人情報の感覚が薄くライナーに普通に自分の住所書いてたんで、時には奥付だけ書かれたカセットテープが送られてきて中身がゴリゴリのナードコアだったり、ノイズというか独特のミックスダウンで聴きづらいけどやりたいことは伝わって面白いインダストリアルなテクノのテープが送られてきたり・・・なんか当時からテクノやってるやつってみんなコミュ障だな! でもなんか妙な連帯感から、それぞれに感想のお手紙を送った記憶があります。みんな元気にしてるかな。  話を戻します。店内に入りカウンターにいたオーナーに「すみません、自作のCDを置かせてほしいんですけど・・・」と話しかけCDをお渡しすると、それを見てオーナーが「あれ、君ってこないだFMたまんの番組に出てたよね?」  「FMたまん」は糸満市のコミュニティFMで、どういう経緯だったかは失念しましたがその年の5月にお呼ばれして曲作りの事などについて話したりしていたのでした(当時のログによると2000/05/11放送だそうな) その時の番組のパーソナリティとオーナーが...

僕のオタク・サブカル思い出(34)

  前回の話からちょっと遡って99年の7月、誕生日の勢いにまかせて当時の僕はついにPC98からDOS/Vマシンへの移行を図ります。世はすでにWindows98が席巻しており、ソーテックがiMacそっくりのPCを発売してappleからめっちゃ怒られたあたりですね。  その頃まで使ってたWin95の乗ってるPC98ではもうスペックがかなりキツかったことと、ようやくバイト等で自分のお金が使えるようになったこともあり自分専用のPCが欲しい!という流れで、当時最も安価で評判もいいCeleron 300Aを選択(300MHzをオーバークロックさせて450MHzにするのが流行ってました)、拡張性も考えて結構でっかいタワー型のケースと奮発しました。  で、Win98搭載のDOS/Vに乗り換えたことで何が起きたかといえば、ついにMIDI音源の縛りから解放されたという点がめちゃくちゃ大きかったんです。  高校生から浪人生くらいの頃はPC98とMIDI音源をRS-232Cケーブルで繋ぎ、他のMIDI音源はそれぞれMIDIケーブルで接続したうえですべての音源に電源を入れ、PCのシーケンサで各機器をコントロールする流れでした。最終的に僕のMIDI音源は自分で買ったSC55mk-2、Wさんから譲ってもらったMU80に加え、来兎さんのおさがりのSU10というサンプラーの3台構成になり、特にSU10のおかげで声ネタも使えるようになって、環境的にかなり強力にはなっていました。  ただ、サンプラーの方は波形ファイルの編集をSU10のパネルで行う必要があったんで編集で結構手間取るということが多かったのと、内蔵メモリの制限があったので音を厳選する必要があったんで、気軽に使えるとはいえ結構手間のかかる機器でした。  DOS/Vに移行したことで、オンボードのサウンドチップでもPCM音源が使えるので、PC上で波形ファイルが編集できるようになったことがまず大きな変化なんですが、もう一つの大きな変化が「レコンポーザから別ソフトへの移行」です。  レコンポーザは元々PC88/PC98用ソフトなので、DOS/Vに移行すると使えなくなってしまいます。まあその頃にはすでにWindows版も発売されていましたが、せっかくDOS/Vに移行したんなら、ということで僕が使いだしたのが「MODトラッカー」です。  MODはホ...

僕のオタク・サブカル思い出(33)

  99年から2年間専門学校に通い情報処理の勉強をしつつ(その時の講師がCOBOLの人だったのは良かったけど「お前たちが卒業する頃に2000年問題があるからな、銀行系はCOBOL理解してないと何もできないんだからしっかりやれ!」っつっててダメだこりゃと思ったりしつつ)、コンビニでバイトとかしつつ、気が付くと卒業しちゃってました。後にそこで習得した技術と全然関係ないとこに就職するんですが、まああれはあれで楽しかったな。学校のPCに勝手にBM98入れてこっそり遊んでたりしたし。  在学中にインターン的なの行ったけど馴染めなくて社会的にダメ人間であることを痛感させられ、何も決まらないまま卒業し、とはいえ何にもしないわけにもいかないだろうということで、当時北谷町にあったPCショップにバイトとして潜り込むことになりました。  当時は空前のDOS/Vマシンブームで、インターネットやるなら自作マシン組むでしょ的な空気があった頃でした。同世代くらいのには「Celeronのオーバークロックがめっちゃ流行ってた時期」と言えば思い出せるあの時期ですね。当時のCeleron好きだったなあ、CPUがファミコンのカセットみたいに挿せたんですよ。  そして当時は北谷町にそういったPCショップが国道58号線沿いに大小合わせて4~5店舗あった時期でした。また沖縄市ではコザ高校近くからコリンザ1階にベスト電器コンピュータウンが移転したあたりだったと思います。あの当時、かそのさんが「沖縄PCホットライン」というサイトを運営しており、個人的趣味で各ショップを訪れパーツの値段比較表を掲載していて、自作PCを作るオタク達はほぼ全員そこにお世話になってたと思います。あれから25年、現存してるPCショップはGoodWillだけですねえ(元々はパソコン工房だった)  僕がお世話になってたショップは土地柄もあって外国人向け(というか米軍人向け)のお店で、店内表示も円とドルの併記になってました。実際お客さんも半数以上がアメリカ人で、僕は全く英語喋れないんで接客はいつもおっかなびっくり。社長は日本人でしたが渡米期間が長かったらしく当然のように英語ペラペラ。あと当時の副社長は「マンガに出てきそうな大陸の人」そのまんまの人でした(お金に厳しい以外はめちゃ良い人でしたよ)  配置された部署の先輩は5つ上のお姉さまで、英...