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僕のオタク・サブカル思い出(31)

  以前にも書きましたが、僕はダンスミュージックが大好きで、その中でもテクノとハウスに傾倒しています。今では曲を配信しつついろんなところでDJをさせていただいてますが、そこに至るまでの話をちょっとだけ。  多分97年~98年くらいだと思うんですが、僕は地元の同人誌即売会に自分のCDと当時比較的手に入りやすかったテクノのCDのレビューをまとめた同人誌をもってサークル参加しました(今考えても無謀すぎるし実際全然出ていかなかった)  その際に、先日の同人誌即売会の回で書いたTさんのサークルでTM Networkのツアーパンフで盛り上がったりしてたわけですが、同日にサークル参加されていた方でキレイな絵の同人誌と共にハウスのDJミックスをCD-Rにして配布されていた方がいて、DJミックス?!こんなとこで?!と大興奮。もちろん内容も素晴らしく、当時ハウスというジャンルは知っていたもののブラックボックスで情報が止まってた僕には宝箱のような内容でした。  そこからちょこちょこと交流があり、後日その方が那覇市久茂地のDJができるバーに店員として居るという話を聞きつけ早速おでかけ。半ば押しかけの状態でしたが生でDJを聴かせていただき、音楽の話も聞かせてもらったりして、二十歳そこらの僕にはかなり刺激的な体験でした。それ以来僕はその方を「DJの師」とすることとしました。その節は本当にありがとうございました。あのとき「ハウス作ります!」って息巻いてたけど実際作ると難しいっす・・・ 十数年後にボカロ使ってほぼネタみたいな曲作った 以外は2ステップとハードハウスしか作れなかったな。  ちょうどそのあたりの時期の、ビートマニアが世間でもかなり認知し始め音ゲーを中心にプレイする人も現れ始めた頃に、那覇市国際通りに当時あった「BUMP」というクラブがわりと頻繁に大物DJを招聘してパーティーを開催してました。僕はそこで Ken Ishii 、 Hiroshi Watanabe 、 Captain Funk 、そして 石野卓球 のDJを生で見ることができました。  ご存じない方に説明すると、まず前者のKen Ishiiは日本におけるクラブミュージックとしてのテクノの黎明期から日本人としてイギリスR&S Recordsから曲をリリースしていた所謂「東洋のテクノ・ゴッド」と称される方ですね。後...

僕のオタク・サブカル思い出(30)

  97年末ごろ、友人から「宜野湾のイーグル2(国道58号線沿いにあったパチスロ店と併設のゲーセン。すでに建物ごと消失)にDJシミュレーターっていうゲームが入ったらしいぜ」という話を聞きました。この当時はDJ経験はありませんでしたが、いちおうダンスミュージックの素養はありましたので是非見に行きたいとなり、さっそくみんなでゲーセン遠征。  そこで待ち受けていたのはコナミの「ビートマニア」でした。ビートマニアはゲーム好きならもはや説明不要の、現在の音ゲー界隈の原点ともいえるゲームです。当時の筐体は5鍵盤+右側ターンテーブルの構成で、最初のバージョンは全9曲、しかもステージ事にジャンルの縛りがあり、判定も結構シビアでした。最終ステージに待ち構える「20,November」の難しさは何度も泣かされましたね(でも曲の良さがそれに勝っていた)  まあ正直、最初のバージョンは曲数が少なかったうえに難易度も高めで、おいてるゲーセンも結構遠かったということもあって数回しかプレイしたことはありませんでした(内心「いやDJってこんな鍵盤使わんよ」みたいなのもあって若干バカにしてたのはある)  数か月後、沖縄市の「ジョイジャングル」というゲーセンにビートマニアの次のバージョン「2ndMIX」が稼働していたので久しぶりにプレイしてみたら、曲が3倍くらいに増えてたうえ、収録されていた曲の中でもひときわ「OVERDOSER(driving dub mix)」の出来が異様に良くて、ちょうど「BERLIN TRAX」(石野卓球)でインダストリアルなテクノに目覚めていた僕は強烈なパンチをもう一発浴びたような気分でした。以降、僕は曲を聴くために音ゲーを遊ぶようになります(今でも続いてるので、もうそろそろ30年くらい音ゲーやってますね・・・)  初代ビートマニアが稼働開始した頃のゲーセンなんですが、格ゲーブームの絶頂期から少し落ち着いたくらいのところで、その他のトピックだと「怒首領蜂」のヒットに代表される所謂「弾幕系」シューティングゲームが猛威を振るい始める頃です。ゲーセンはまだまだレバー+ボタンのアップライト筐体が大部分を占めていて、店の外側にクレーンゲームとプリクラが稼働しており、格ゲーブームの最初の方と比べると段違いに明るい雰囲気に変わっていました。  その中にやってきた音ゲーなんですが、ゲ...

僕のオタク・サブカル思い出(29)

  高校卒業して浪人生になっていた97年頃、我が家についにWindows95が稼働するパソコンがやってきました。当時はまだPC98シリーズで動かしていて、MS-DOSのランチャーでWin95を起動してましたけど、その日から僕も晴れてWinユーザーとなったわけです。  Windowsがやってきた、ということはつまりインターネットブラウザが使えるわけで、やっとインターネットに接続できるようになったんですね。曲だけは先行して2年くらい前から置かれていましたが、その頃にようやくブラウザで自分の曲がどのように配布されているのかを目にすることができました。技術革新!  その当時はNiftyServeのインターネット接続サービスを使用していました(関係ないんですがNiftyは当時アメリカのCompuServeに接続できるサービスがありましたね。一回も使ったことないけど。) あの当時はISDNすらなかったので、画像表示が上からじわじわやってくるというインターネット老害あるあるもこの頃に体験してます。  再三書いているとおり、これまでパソコン通信は特定のホストに直接接続するのが当然の世界だったので、プロバイダに接続するとURLさえ知っていればどこまででも行けるといういわゆるワールドワイドウェブ(WWW)の概念を理解するのにちょっと時間がかかったのを覚えてます。  それと同時に、「特定のホストで特定のユーザーと仲間内の会話を楽しむ」という楽しみ方が普通だったものが、突然全世界が接続できる世界に放り出されたっていう感覚があって、しばらくはなんだか居心地が悪かったですね。  ちょうどこのあたりで、僕がアクセスしていたホストが閉鎖することになり、そこの常連がみんなIRC(インターネットリレーチャット)に移行するっていう話をしていた頃で、新しい技術にワクワクしている常連たちを横目に僕はちょっと居場所を追い出されたような気持ちになっていました。  思えば、あの当時からコミュニティ形成のツールとしてのネットとの付き合いは大体5~6年単位くらいで変化してたような気がします。このあたりから多くの人が自分のウェブサイトを運営するようになって掲示板を設置してましたが、そこから時代が下ると今度はウェブログ(ブログ)ブームがやってきて掲示板の文化も薄れていきました。さらにそこからSNS時代へ突入するん...

僕のオタク・サブカル思い出(28)

  たくさんの友達と出会い、なんやかんやで青春ぽいことをやりつつ、でも大学受験に大失敗して、僕はようやく高校を卒業します。あまりにも青春の思い出がゲーセンに偏りすぎていて学校で何したかあんまり覚えてないくらいでしたね。  学校で印象的だったのは、高校1年の時の学園祭で、1学年12クラスあった中の10組だった僕がほぼ初めて同級生の前半側のクラスの出し物を見に行ったら、窓ガラス全てに黒いごみ袋を張り付けて目張りし、そこかしこに当時のテクノのレーベルロゴ(RISING HIGHとか)を手書きしたものが張り付けられた謎の教室があり「こんなところにもテクノ聴いてるやついるんだ!」って感動したってくらいです。クラスメイト何人かにケンイシイとか貸してみたけど誰もピンと来てなくて、当時はグリーンデイのコピーバンドとか流行ってたなあ。  ちなみに、高校1年の時に出会い僕を達名に導いてくれたY君は3年間一緒のクラスとなり、高内外でもだいたい一緒に行動していました。一緒にゲーセン行ったり、彼を通じて知り合った他の高校の同級生たちと一緒に遊んだり、彼の参加してる部活のお手伝いをしてたら色々あって部員でもない僕も一緒に東京に連れてってもらったり、たくさんの思い出があるんですが本筋と関係ないので割愛します!  卒業式の後は晴れて浪人生にクラスチェンジしたんですが、卒業と同時にとある短期バイトを紹介してもらい、そのバイト代で達名の常連WさんからYAMAHAのMIDI音源「MU80」を譲っていただきました。  当時のオールインワンタイプのMIDI音源は(詳しいわけではないので間違ってるかもです)GM規格という各社共通の音色セットがあり、その拡張規格としてローランドのGS規格とヤマハのXG規格という2大フォーマットがありました。僕は高校入学時にGS音源のSC55mk-2を持っていたので、MU80が加わることでどちらの規格も(下のクラスですが)使えるようになった格好です。  このMU80の特徴が「外部入力の音声に対してエフェクトをかけることが可能」というもので、いわゆるギターのエフェクターのような役割も持ってたので、この機能を駆使しつつ2台まとめて録音できるようになりました。このエフェクター機能がすごい面白いんですよねえ。おかげで音作りにかなり幅が広がりました。  そのうえMIDI音源はMID...

僕のオタク・サブカル思い出(27)

  以前よりそういう世界があることは知ってはいたものの、高校生になってY君から誘われたことで初めて飛び込んだ「同人誌即売会」の世界は、89年のあの事件以降自分がひた隠しにしてきたオタクというアイデンティティを全部開放しても大丈夫な場所があるんだ!という喜びに満ちたところでもありました。それは会場に居た多くの人が同じ思いだったんじゃないかなあと思います。  僕が即売会に出入りするようになった最初の1年は、数か月に1回どこかの個人開催のイベントに参加するという感じでしたが、当初は殆どが那覇市教育福祉会館、たまーにJA会館(当時は楚辺のほう)だったので、大体はNEXTのみんなが行くので、誰かの車に便乗して連れてってもらうという感じでした。「沖縄オタククロニクル」で記述のあるVAIOは僕の認識では「沖縄最初期の同人誌即売会」という印象だったんですけど、そもそも出発点が違うというのは驚きでしたねー。  以降、多分95年くらいからだと思うんですがスタジオYOUの「おでかけライブ」が定期開催として定着して以降は個人による開催は殆ど無いのではないかと思います。那覇市民会館が定例で、年に1~2回沖縄コンベンションセンターで開催するのが00年代頭くらいまでで、以降は年4回くらいコンベンションセンターという感じですかね(そういえば隣の展示棟でもやってた時期ありましたね)  おでかけライブが定着する前後くらいから、如実にコスプレをする人が増加していたように記憶しています。元々女性の参加者が多いのは地方都市どこも共通していると思うんですけど、コスプレは自分が記憶してる最初のあたりはひと会場に10人いるかなっていうくらいで、だんだんと会場が大きくなるにつれて増えた印象です(コスプレ用のエリアが拡張されていったことと更衣室の確保のノウハウが積み上げられてきた、みたいな要因かもしれない)  男性が中心のサークルは常に少なくて、僕が高校生の頃は大体がNEXTと、ふじまるありくいさん等が所属していた超実力派のサークル「ハンサム団」、あとはガンダム中心サークルっていう看板だったはずの「UC0123」の3か所くらいかな。あとは時々単発で誰かが参加しているか、毎回スペースは取られているのにブースに行くと誰もいない「Macろけ」という謎のサークルも居ましたね(マジであれは誰だったんだろう)  当時もサ...

僕のオタク・サブカル思い出(26)

  僕が高校生の頃、入り浸ってたゲーセン「達人と名人」(通称「達名」)だけでなく、県内にはたくさんのゲーセンが生まれては消えていきました。高校1年生の夏にはカプコンから「ヴァンパイア」、SNKから「THE KING OF FIGHTERS 94」の稼働開始で世は格闘ゲームブームの真っただ中!という印象でしたね。また前年末にはセガから「バーチャファイター」が稼働してましたが、94年にはナムコから「鉄拳」も稼働開始となっており、3Dでも格ゲーブームに火が付き始めていたころです。  あの頃に出た格ゲー、いろんなタイトルあったなあ。登場キャラ全員濃い「ファイターズヒストリー」、大味で面白い「ワールドヒーローズ」、なんでグローブにブーメラン?の「風雲黙示録」シリーズ、全員おかしい「ブレイカーズ」、気持ちいいぐらい振り切ってる「大江戸ファイト」などなど。僕はブレイカーズでピエール使ってました。  達名ではそのころからカプコンの「ヴァンパイア」シリーズと「X-MEN」以降のマーヴルシリーズはもちろん、SNKのKOFシリーズや「サムライスピリッツ」シリーズ等もちゃんと時世に併せて取り揃えており、常に対戦台が大賑わいでした(以前書いたとおり対戦台が1階と2階に分割されているためケンカになりにくいという特性もありました)  あと、来兎さんの策謀によりカプコンの「シークレットファイル」も購入できる数少ない店舗にもなってました。シークレットファイルは当時のカプコンが各ゲームごとに発行していた小冊子で、ゲーム雑誌にも載らない公式のイラスト等が山盛りだったので、特にストリートファイターシリーズや「クイズなないろDREAMS 虹色町の奇跡」はみんなゲットしてましたねー。  沖縄市内は相変わらずコザ十字路と胡屋十字路近辺にゲーセンが集中してましたが、胡屋はタイトー直営とセガ直営があったので大型筐体もそれなりに遊べる環境がありました。  コザ十字路では達名と、路地裏側にあった「サファリ」、大通り側に「チャンプ」の3店舗が比較的ににぎわっており、96年くらいに「バトルテックビート」ができたのかな。そこから胡屋方向に行くと現在はユニオンスカラコザボー店になっている「コザボウリングセンター」がありました。いわゆるボウリング場ゲーセンですね。  胡屋十字路は先ほどの直営店のほか老舗の「ヤングパレス」...

僕のオタク・サブカル思い出(25)

  高校生になるとこれまでの小・中の校区からさらに広がっていくので、今まで交流のなかった地域の生徒と一緒に通学するようになるんですが、僕の場合は学校よりも通ってたゲーセン「達人と名人」を通してできた同級生の友達もたくさんいました。基本的にはクラスメイトのY君つながりで、次第に僕の交友関係は中学からの持ち上がりから達名で出来た友達の方に軸足が移っていきます。  そんな中、メンバーのうちの一人が「TRPGをみんなでやってみよう」と提案してきました。  TRPGとは「テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム」の略称で、我々世代にとってRPGといえばドラゴンクエストやファイナルファンタジーが代表格のコンピューターRPGでしたが、TRPGはそれを紙とペンとダイスで遊ぶクラシカルなスタイルのRPGです。  TRPGの代表格といえば近年映画にもなった金字塔「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ(D&D)」ですけど、D&Dは歴史が長く様々なシナリオがすでにたくさんあるものの、正直殆ど前提知識もない高校生の僕たちにはハードルが高いんで、日本における代表的なルールブック「ソード・ワールド」の方を選択しました。こっちはD&Dに比べると簡素なルールですが、工夫すれば本当に白紙とペンと6面ダイスだけでなんとかなっちゃうので初心者にもとっつきやすいんですよね。   TRPGのプレイの流れは「キャラメイク(パラメータをダイスを振って決め、それを元に自分のキャラの設定を決める)」→「進行を務めるゲームマスター(GM)の口頭の指示に従い、キャラになりきって仲間と相談しながら会話でゲームを進める」という感じ。  シナリオは市販のものもありますが、GMが事前に作成することも多く、同人誌でシナリオを発行しているサークルもたくさんありますね。そしてゲームの進行はすべて口頭で行うため、システムの上で決められた行動しかできないコンピューターRPGでは考えられない予測不能の行動をプレイヤーがやってくることもよくあるので、実際のゲームの面白さはそのGMの会話コントロールの腕にかかっているとも言えます。  その時点でも、有名な日本のファンタジー系小説「ロードス島戦記」の大元がこのソードワールドのリプレイ(プレイ後にその時の会話等をまとめて読めるようにしたもの)という話も知っていたので、特に下調べもせずノリで日取...