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僕のオタク・サブカル思い出(18)

  高校1年の2学期が始まったあたりから、僕は学校近くのゲーセン「達人と名人」(達名)に足繁く通うようになります。1ゲーム20円の台(2階トイレ横に1943改があって、駄菓子コーナーで30円のビスコを買ってから遊ぶのに丁度いい)もあるし、コミュニケーションノートもあるので、これまで通ったゲーセンとは段違いの居心地の良さでした。  ある日、駄菓子コーナーの上に置いてあったラジカセのところに人が集まってるので覗いてみると、「Xの紅っぽいアレンジのラジオ体操」を作って来た!という、スト2ターボのTシャツを着た眼鏡のお兄さんが居ました。その人は後に「MELTY BLOOD」「UNDER NIGHT IN-BIRTH」の音楽を手掛けることになる 来兎さん です。  僕も音源は持ってたんで「これどーやって作ったんですか?」と尋ねると「レコンポーザってソフトがあって、それを使ってる」とのこと。レコンポーザといえば、TM Network時代にも小室哲哉が使用していたというシーケンサーです。この話をきっかけに曲の作り方などを色々情報交換できるようになり、以降の僕は来兎さんの指導のもと(ってほど細かく教えてもらったわけではないけど)レコンポーザで曲を作るようになりました。オリジナルで曲を作れるようになったのは多分半年後くらいじゃないかなあ。この出会いが無ければ僕は曲も作ってないしDJもやってないんですよね、そういう意味で間違いなく大恩人なのです。  あの時はすでに同人サークル「NEXT」を結成しており、主に同級生数人を中心メンバーとして同人誌を制作していました。このへんはうろ覚えなんですが、出会った頃くらいにマエカワさんがNEXTに合流していて、マエカワさんのマンガを中心に同人誌を作ってたんじゃなかったかな。  当時から来兎さんとマエカワの「面白いものを作ろう」という熱意は高く、当時の男性中心のメンバーによる同人サークルとしては珍しく定期的に同人誌を発行していて、そのクオリティも他サークルとは一段階上という印象でした。  ご本人たちもいろんなところでお話されてることではあるのと、僕はメンバーではなくたまたま横で目の当たりにしていたという立場なんですが、以降も僕の思い出せる範囲で当時の様子を書いてみます。  ここからは余談。その時の達名の常連の中に居たMさんから「君、もしかして〇...

僕のオタク・サブカル思い出(17)

  高校に入って初めて出来た、別の中学から来た男子のY君の紹介で、学校から歩いて5分ほどのところにある小さいゲーセンに連れていかれました。そのゲーセンは「達人と名人」という不思議な名前で、明らかに2階建の民家を改造した店舗でした。  出入口横には壁を無理やり取り払って設置されたUFOキャッチャーがあり、扉を開くと狭ーいスペースの左側に6台のアップライト筐体、右手にテーブル筐体が2台。奥に2階への階段があり、その下のスペースが店員用の部屋と駄菓子の陳列棚。  なんかとんでもない手作り感のある店だなあと思いながらアップライト筐体に目をやると、スト2ターボで小学生が対戦をやっていて・・・あれ、でもこの筐体の向こう側って階段と店員用スペースしかないし、かといって一台で2人を操作している風でもないな、これ誰と対戦してるんだろ?  「ああこれ、実は2階にある台と繋がってて、1階と2階で対戦できるようになってんのよ。だから相手は今2階に居るよ。」  Y君の説明を聞いてもいまいちピンと来なくて、半信半疑でめちゃくちゃ急で狭い階段を上っていくと・・・ホントに2P側の筐体が2階にあった!マジかよ!この1階と2階を繋いだ対戦台、この店以外ではさすがに見たことない珍しすぎるセッティングでした。2階は1階とリンクした対戦台が2台と、もう2台がその時はたしかエイリアンVSプレデターの4人同時プレイできる台、そして別の壁側にはこの狭いスペースにどうやって運び込んだのか想像もつかないセガのメガロ50。何ここ。カオスすぎる。  カルチャーショックにクラクラしながら階段を下りてしばらく店内を眺めていると、Y君が「これこれ」とノートを差し出してくれました。オタクがあつまるゲーセンにはつきものの「コミュニケーションノート」ですね。そこには常連が絵やメッセージなどを気軽に書き込んでいる様子があり、特に荒れるでもなく和やかに交流しているのが見て取れました。  こぢんまりとしていて居心地は良いんだけど、常連の結束が固そうでコミュニティに入るのが容易ではなさそうな雰囲気を察知し、また気が向いたら来るわーとY君に挨拶してその日は帰宅。しかし変なゲーセンだったな・・・。  で、高校1年の夏休み。僕は達人と名人ではなく、胡屋十字路にあったタイトーパセオに通い詰めます。理由は「レイフォース」。レイフォースはタイト...

僕のオタク・サブカル思い出(16)

  中学3年で吹奏楽部に所属し、生徒会役員を押し付けられ、なんか断れない空気を作られて校内合唱コンクールで独唱し、ギリギリ席次30位前後をキープしつつも低空飛行の学力の低さをカバーするべくヤンチャな奴がひしめく学習塾に押し込められ、その秋頃に導入された高校推薦入学制度に申し込んで「まあそれなりの実績はあるからなんとかなるだろう」と臨んだ面接で高校の先生から質問もそこそこに「うんまあ君の成績なら一般入試でも行けるよ。じゃあこれで終わりね。」とあっけなく落とされ(代わりに運動部を強化したかった高校側の意向により僕より成績が結構下だった運動部員が15人くらい合格してた)、大人への不信感という中学生らしい感情が芽生えつつ、なんとか高校受験を突破。なんか中2の冬から異様にスケジュール詰まってて長かったな・・・。  高校入学のお祝い金をいろんな人から頂いたので、僕は一念発起して「作曲のためにMIDI音源を買おう!」と父の知り合いのカメラ屋さんに注文しました(思えばあそこで注文した最後の商品だったな)  僕が欲しかったのはモジュールタイプという鍵盤のない音源のみの箱型のものでした。僕が当時買ったのはSC-55mk2というローランドの音源とソフトが同梱された「ミュー次郎55」で、届いてからしばらくは付属のソフトを使って曲を作ろうと奮闘してみたんですが、そのソフトが「楽譜をそのまま打ち込みできる」という触れ込みではあったものの非常に使いにくく、結局僕はそこから1年くらい寝かせてしまうことになりました。  僕が通ってた高校は市内ではミドルクラスの学力で、ひと学年12クラスとかあるすんごい大きい高校でした(交流はなかったけど定時制もあった) 学食がおいしいことでも有名で、実際お昼時間になると弁当屋さんが中庭にひしめき合っていたうえ、正門向かいに安い弁当を扱う小さいスーパー、裏門を出てすぐのところにもお弁当屋さんがあるという、食生活に関しては沖縄最強と言っていい高校でした(この話は本編と関係ないです。自慢したかっただけです。)  高校から自宅までの道すがらにブックボックスという書店+レンタルビデオ・CDショップのチェーン店がありました。そこ、何故かTM Networkの「DIVE INTO YOUR BODY」の非売品シングル(DJ用にトラックの前後が長くなってるやつ)がレンタルに...

僕のオタク・サブカル思い出(中学の頃の思い出補足編)

あのSFやガジェット、ゲームに何年生で出会ったかがわかるインタラクティブ年表「SF・コンピューター技術ライフライン」を3倍に育てた。自分語りに便利なX共有機能も(CloseBox) | テクノエッジ TechnoEdge https://www.techno-edge.net/article/2026/08/05/5365.html  ・・・という記事がありまして。滅茶苦茶便利で色々思い出すのに本当に助かります。  さかのぼってみると結構抜けてるというか、単にメモとして書いときたいなっていう話をここで思いっきり書き散らしていきます。完全に趣味の話です。  中学生の頃、那覇にベスト電器系列のパソコン専門ショップ「コンピュータウン」がありました(後に沖縄市にもやってくる) 当時はソフトベンダー武尊が僕のパソコンライフを支えてくれたんですが、コンピュータウンは毎回行くたびにPC98以外のPCが沢山見られるのが楽しくて、売り場で買いもしないパソコンに貼りついたりしてましたね。  当時くらいから徐々に、これからはパソコンも扱えるようにならなきゃね的な雑な感じで中学校の授業でもパソコンを使う時間がありました。うちの中学にあったのはFM TOWNS(以下タウンズ) タウンズは富士通から発売されたCD-ROMドライブ標準搭載のパソコンで、当時としては破格の大容量のCD-ROMを利用したマルチメディアソフトが多数発売されてました(思えばマルチメディアっていう言葉が使われだしたのもこのあたりじゃないかな)  当時コンピュータウンにはパソコン通信で出会ったお兄ちゃん達に連れてってもらったりしてました。店頭では大体なんかしらデモでゲームの映像が流れていたので、学校じゃ絶対見ることのできない本気のタウンズの姿を見て興奮したり、マルチメディアソフト特化型の小型版タウンズ「FM TOWNS マーティー」の実機が展示されてるのを眺めたりしてました。  そういえば中3くらいに初めてWindows3.1を触った記憶があります。でもあのときはタスクバーが無くて、デスクトップにゴミ箱といくつかのアイコンしかなく、しかもそのアイコンをうっかり画面端に持っていくと再び画面内に戻すのが今以上にめんどくさい(本当にどこにいったか分からなくなる)みたいな感じで、MS-DOSのランチャーしか使ったことない僕にはさすが...

僕のオタク・サブカル思い出(15)

 中学生の後半あたりから「ストリートファイター2」の爆発的ヒットを景気に、ゲームセンターでの格闘ゲームブームがやってきます。中学を卒業する1994年くらいには沖縄市内にもかなりの数のゲーセンがにょきっと生えてきました。大小さまざまなゲーセンがあったことは確認してるんですが、当時の僕は学校内でじんわり浸透していた「ゲーセンに行ったらチクられる」という空気に気圧されて、地元のゲーセンにはあんまり立ち寄れていない時期でもありました(実際、以前の回で書いたポンキッキ等も店内にいるのを見られただけで「先生に報告するぞ」と同級生から軽い脅しをかけられ「店内で見たならお前も同罪だろ」と返したり)  小学生の頃の時に書いてなかったんですが、僕は10歳だか11歳だかの頃に父に強制されてアマチュア無線の免許を取得しています。なんでも父の知り合いに「小学生で免許取った子がいて、それが沖縄では最年少だって話だから、お前にも取れるだろう」とかいうよくわからん理由でした。結構苦労して取ったけど3年くらいで使わなくなっちゃったなあ。  ただ、基本的には車に搭載された無線機と自宅の無線機で「〇〇時に帰ります」みたいな報告に使ってたくらいなんですが、もうひとつの活用法として「遠出したときに個人行動が出来るように携帯無線機をもって歩く」てのをやってて、今でいうスマホの扱いで連絡とれるようにしていたんで那覇遠征の時は結構のびのびとゲーセンで遊んだりできていたのでした。この点だけは本当に助かりました。  で、那覇市国際通り、那覇タワーに併設の立体駐車場を改装してできた「ファッションシティーMAXY」の地下階にセガの直営店があって、たしか1991年くらいの時点では伝説の大型筐体「SEGA R360」が稼働してました。SEGA R360はその名の通り360度(実際には縦横回転なので720? 1080?)回転するジェットコースターもかくやのびっくり大型筐体です。あんまりにもでかい上に特殊な筐体なので、稼働開始から半年くらいは「店員に500円渡す→店員がプレイヤーのシートベルト等装着を確認し、ポケットの中身を預かる(逆さになるので小銭や鍵が落ちる事例が多かった)→プレイ開始とともに店員が実況を始める」というのが通例だったと記憶してます。後に北谷町美浜の58号線沿い(今のくら寿司のところ)にあったテクモピアに移設さ...

僕のオタク・サブカル思い出(14)

  中学の頃まで、僕は物欲はあるけど自我はあんまりない、流されまくるタイプでした。幸い身体がデカかった(身長は低いが胸板が厚いので筋肉質っぽく見える)影響でヤンチャなのに絡まれることは少なかったものの、学校では地味かつ真面目っぽく過ごすだけの日々。  部活は、兄が所属していた影響で一応サッカー部に籍を置いたものの全くついていけず、1年生の後半からは幽霊部員状態。勉強は一学年300人くらいの中で30位~50位くらいに留まれる程度にはやってたんですが明らかに数学と歴史がダメでパッとせず。普段はクラス内で中学の時から仲の良かったやつとゲームの話とか音楽の話なんかをしてやり過ごしてました。  2年生の2学期末頃、同級生の男子2人から声をかけられ「これ吹いてみて」と、唐突に金属で出来た謎の物体を渡されました。 「これ、マウスピースっつってトランペットとかを吹くときに使う道具なんだけどさ、これを口に当ててブーッって唇震わせて音出るかどうか、やってみてよ。」  よくわからないまま吹いてみると、低い音でブブーっと音が出ました。それを見た2人が僕の腕をつかんでニヤリと笑い「よし、今日から吹奏楽部だ!」などと言って僕の意見も聞かずにそのまま音楽室に連行されます。  先ほど吹かされたのは金管楽器でも低音部を支えるチューバ用のマウスピースだったんですが、先輩が受験のため部を卒業したことでパートに穴が開いてしまい、暇そうでかつ大きい楽器を支えられそうなガタイのいい男を探していたのです。完全に不意打ちで音楽室に連れてこられたものの、二人から事情を聞いて頼み込まれたことと「お前サッカー部全然行ってないんだろ、でも部活やってた方が受験に有利じゃん?」という説得に負け、その日から吹奏楽部に所属することになりました。  さて、吹奏楽部ということは楽器演奏するってことなんだけど、いや僕全然楽譜とか読めないんだけど・・・と不安を漏らすと「いや大丈夫、やってりゃなんとかなるから!」と先ほどの2人は細かいところは完全に丸投げ。そして低音部のパートは当然面識もないチューバ担当の同級生女子とコントラバスの下級生女子の2人。全く楽器演奏の経験がないのに部活に最初から後輩が居るという特殊環境もあり、どちらも結構親切に教えてはくれたけど、そもそも基礎から全く解ってなかったので「こりゃこのままだとみんなに迷惑かけ...

僕のオタク・サブカル思い出(13)

  僕が小学校高学年くらいから中学校時代にかけて、家庭用ゲーム機はもちろんですがゲーセン自体にも様々な環境の変化が訪れます。  1988年のアーケード版テトリスの大ヒット、そして1991年の「ストリートファイター2」の爆発的ヒットとUFOキャッチャーによるプライズゲームの盛り上がり、さらに1992年アーケード版「ぷよぷよ」のヒット等を経て、1995年の「プリント倶楽部」稼働開始によって段階的にゲーセンが「明るい場所」へと変貌していきます。  僕たち世代にとっては「ストリートファイター2」の登場でゲーセンでの遊び方は一変しました。今までみんなで「如何に長く遊んでクリアまたはハイスコアを取るか」というのが基本だったのが、プレイヤー同士で対戦することの面白さを与えられてしまったからさあ大変。噂にも聞くとおりインカムが徐々に増えていき、ゲーセン自体がどんどん活性化していきます。類似ゲームも大量にリリースされる中、やはりカプコンとSNKの2大巨頭が対戦台を占拠していました。  僕が初めてスト2をプレイしたのは沖縄市胡屋にあったハイテクセガの2階。スト2稼働当初は向かい合わせの対戦台はまだ無く、大体はコンパネの左右で並んでということになるんで、友達同士で仲良く(?)キャラを譲り合ってバトルしてました。あのときのハイテクセガは1階にラッドモビールがあって、2階の階段上がって左側にスト2とぷよぷとが配置されてたのと、真ん中の島にテーブル筐体の「アラビアンファイト」や「チャタンヤラクーシャンク」(漢字で書くと「北谷屋良公相君」でおなじみ)、反対側の壁に「琉球」「宇宙戦艦ゴモラ」「ピストル大名の冒険」があったような・・・。  対戦が本格化してきたのはスト2ダッシュくらいからだと記憶してるんですが、ゲームそのものの面白さもさることながら、火付け役としてアーケードゲーム専門誌「ゲーメスト」と、本来はプログラムを掲載するはずの雑誌なのに何故かゲーム記事が熱すぎる「マイコンBASICマガジン(ベーマガ)」の2誌があったのではないかと思います。どちらも全国の提携ゲーセンから集計するハイスコア記事があることでも有名でしたが、格ゲーにおいては前者は各キャラの攻略法や戦い方の基本などを解説する記事が多く、後者は対戦の熱さを伝える企画「バトル・オブ・スト2」が人気でしたね。  以降、SNKが「餓...