僕のオタク・サブカル思い出(37)

  なんやかんやありまして、2003年8月に結婚し、子が生まれました。それ以降の活動については(既に20年以上前の話も含んでいますが)ログが結構ネット上で確認できるため、結婚後から現在までの活動記録と、その近辺の文化や状況で僕がわかる範囲の話をかいつまんでいきます。

同人活動:
 現在もおでかけライブが定期的に沖縄コンベンションセンターにて開催されていますが、僕らが20代前半の頃のようなほぼ毎月というペースではなくなっています。また近年増えているのはオタクとあんまり関係ない物も扱っているハンドメイドのアクセサリーや小物等のブースですね。男女比はまだ6~7割程度ですが、サークル参加している男性も以前よりは少し増えてるなーという印象です。曲作ってCD売ってるサークルも少数ですが存在しているようです。Macろけって結局1回もブースに居るの見たことなかったな・・・。
 実際のところ、同人活動って主戦場の半分がネットに移行しているところもあり、本を自分で作って売るという文化自体もちょっとずつ縮小化している一方で、デジタル作画環境などツール側が進化することで制作へのハードルが下がったこともあり、クリエイターの人口は増えているのかなあとも思います。そこらへんの均衡が今の県内の即売会の雰囲気を作ってるのかもしれませんね。
 僕はというと、30代になって、奥様(妻のこと)の暗躍により同人サークル「ソフト闇金」を立ち上げ、2年ほど活動していました。人生初のオフセット同人誌、コミケでの頒布、ボカロCD持ってVOCALOiD M@STER参加(ウィザーズスターが縁でうちのサークルに「炉心融解」のirohaさんから差し入れを頂くというサプライズがありました)、ゲーセンのイベントやクラブイベントでのブース出展など、濃密な2年間を過ごしました。
 また40手前で今後はINGRESSの同人誌を出すために僕がサークル「カビパン」を立ち上げ2冊の同人誌を制作。殆ど自分で制作するうえ2冊目はCD付きだったので地獄の作業量だったうえ売り上げは芳しくありませんでしたが、この活動を通して出会った人も多く、経験は貴重なものでした。

ゲーセン:
 県内のゲーセンは個人経営の店舗がどんどん消えていき、那覇の「ゲームインナハ2」の閉店はテレビのニュースでも取り上げられましたね。現在残っているゲーセンも殆どがクレーンゲームとメダルゲームで、アップライト筐体が設置されている店舗は極わずか、大体は商業施設の一角にあるか、ラウンドワンかという状況。地元の沖縄市には格ゲーブームから音ゲーブームまでに数十件あったゲーセンはすべて消えてしまいました。
 僕自身も結婚後はかなり足が遠のいてしまい、2000年代中期頃の音ゲーブーム収束と共にゲーセンも少なくなったことも重なって、ゲームは家でばっかりやってました(ちょうどFPSにハマりはじめた時期でもありました) 一応、子達が「太鼓の達人」に激ハマりしていたので連れていく機会は多く、出入り自体はしていました。
 が、beatmania 2DXのバージョンがCANNON BALLERSになった際に久しぶりに遊んでみたら好みの音の曲が激増しており、それをきっかけにゲーセンに復帰。新型コロナが猛威を振るった時期には遊びに行けず苦しい思いをしたり、推しのWACCAがサービス終了などの憂き目に遭いつつ、今も週1~2ペースで通っています。またこのゲーセン通いがきっかけでDJの依頼を頂いたこともありました。何がきっかけになるか本当にわからんね。

音楽:
 作曲活動は現在も継続。この名義になって今年で30年目になります。おかげさまでアルバムを制作してもらえたり、リミックス案件で2曲が実際のゲームに収録されたりしました(あすか120%エスプレイド) しかもこの案件を振ってくれたのが、mixiで声をかけられ同人CDに曲を提供したところから始まっているんですよね。長く続けるとこういうことになるのか。
 また、NEXT時代のつながりから来兎さん経由で何度か依頼を頂いており、ウィザーズスターだけでなく渡辺製作所の「Queen Of Heart」「GLOVE ON FIGHT」のそれぞれのサントラへのリミックス提供や、フランスパンの「バイクバンディッツ」(ウィザーズスターの実質的続編)への曲提供などもさせて頂きました。後年それで知ってくれている方からもお声かけがあったりしてうれしかったですね。
 DJに関しては、まちBBSでの書き込みをきっかけに那覇の国際通りにあったクラブ「熱血社交場」でのレギュラーパーティーにレジデントとして1年ちょっと参加。共演したRYUKYUDISKOが同い年で兄の方が同じ高校だったという事実が発覚するなどしました。故KAGAMIとの共演など、普通に生活してたらありえない経験をたくさんいただいています。またDJや作曲を通して非常に多くの方との交流が生まれており、今後もそこから活動の幅が広がっていきそうです。
 県内のクラブは大小様々に点在しており、ジャンルごとに独自の界隈を形成しているようです。ただ大きいお店は減少傾向にあるような気がします。沖縄市にあった巨大なディスコ「ピラミッド」は2005年、開南から新都心に移転した「火の玉ホール」は2014年、レギュラーやらせてもらって以降も多数のDJを経験しお店自体大好きだった「熱血社交場」は2024年に閉店。ピラミッドと熱血社交場については既に建物自体が存在しません。時代とはいえ寂しいねえ。

ネット:
 皆さんご存じのとおりではありますが、まず2000年に入るまでにはGoogleがスタンダードになっており、2001年の個人ニュースサイトの勃興と「侍魂」の大ブームで一大テキストサイトブームが起きたあたりで「同じ面白を皆でシェアする」の空気が強くなった感じがありますね。これがウェブログブームにつながってmixiを嚆矢とする日本でのSNSブームに発展し(そういや結局myspace全然定着せんかったな)、日本のオタクは大体Twitter(現X)と5ちゃんとふたばに定着していったようなイメージがあります。
 これまでにも書いていたとおり、パソコン通信時代は「ホスト」という一つの緩いクローズドコミュニティが形成されており、ユーザーによる相互の影響はあったものの並列になることは殆どなかったため、インターネットに接続し始めたころはオープンスペースの居心地の悪さに戸惑ったところもありましたが、結局掲示板だのチャットツールだの分散して似たようなことをしていたのですぐに慣れちゃったなあという感じです。
 先ほど書いてた他3つの項目すべてに大きく影響していたのがここの部分で、パソコン通信時代から延々と活動を続けていたことが特に2010年以降大きく影響しています。日本におけるインターネット黎明期からPOSEさんやakira-jさんによって僕の曲がインターネット上でも配信され、そこから自分でサイトを持つようになっていた過程で僕のことを知ってくれた人が多かったようで、後年になって「Googleでテクノで検索したら出てきて知りました」とか「小学生の頃MOD聞いてました」など、意外な角度で知ってくれている人もいました。
 認知度だけでなく各所でのコンピレーションへの参加も可能な限り参加していて、特に東京近辺のクラブイベントが合同で行うキャンペーン企画である「TECHNO ALLIANCE」シリーズは、沖縄在住なのに今のところ全て曲を提供しており、その流れでアルバムを作ってもらいました。これもネットを介してやりとりができることの強みですね。
 パソコン通信時代からの交友関係に関しても、ニコ動の猫動画がバズって書籍にまでなった「ふちゃ主」さんは中学の時からの付き合いで、その流れで「ふちゃぎものがたり」の曲を作ったり、後年に猫を2匹迎え入れることになったりしました。

 そんなわけで、結婚前までにやってた色んな事が、この年齢までに様々なところで小さいながらも結実している人生だなあと思います。ここまでの記事をまとめて振り返ると、改めて僕はかなり環境と人の出会いに恵まれているなあと実感しますねえ。

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