僕のオタク・サブカル思い出(1)
僕は沖縄県の中部地区にある沖縄市に生まれました。沖縄市は県内では那覇市に次ぐ第2の都市で、面積の約3割をアジア最大の米軍基地である嘉手納飛行場(嘉手納基地)が占めている「基地の街」としても知られています。
沖縄市は沖縄県の日本復帰後から2年後の1974年に美里村とコザ市の2つが合併して生まれた市で、太平洋戦争後の混乱期からベトナム戦争時代初期にかけて基地問題等を抱えながら急速に発展していった街でもあります。
僕が産まれたのは1978年7月。沖縄では長年のアメリカ統治下で定着していた車両の右側通行が、日本の左側通行に切り替えられた時期でした(1978年7月30日施行) 僕は男だけの3人兄弟の末っ子で、当時は同じ家に両親と祖父母、曾祖母で住む8人家族でした。わりと昭和の沖縄ではよくある構成だと思うんですが、今になって考えるとすごい大家族ですね。
父は高校時代に柔道部に所属し大学卒業後に公務員となった真面目人間、母は父実家に店を建て自営業を営んでおり、僕が小学校低学年までは祖父も公務員として働いていたので、日中は基本的に祖母と曾祖母が幼い僕の面倒を見るという、オタクにありがちないい距離感のほったらかし育児の中ですくすくと育ちました。兄弟との関係はそれほど仲良くはないんですが、長男が運動大好きの脳筋で、次男はスポーツもやるけどファッション大好きでサブカル系という、かなり幅のあるキャラクターでした。
曾祖母は僕が生まれた時点ですでに80歳を超えており、いつも自室に座ってラジオを聴きながらぼんやり過ごしていました。物心のついてない2歳くらいまではよく曾祖母の膝の上でお茶菓子を食べていたそうです(その影響か、今でもお菓子の好みは渋めです。) また祖母はおしゃべりで超アクティブな性格であり、裏表のない(そのため物言いがストレートでよく母と衝突していた)パワフルな人でしたが、孫世代の僕ら兄弟には大変甘い人でした。近所の人とは昔ながらの方言で会話していても、僕らと接するときはなるべく標準語に近い言葉で話してくれたので、そういう意味では方言の継承は全然されないまま幼少期を過ごしてましたね。
そんな中、僕は基本的には家のなかでゴロゴロ過ごし、暇があれば寝て過ごす超インドアでマイペースな性格でしたが、家族8人中3人が働いておりそれなりに裕福ではあったことと、2人の兄が居るおかげで兄のおもちゃや漫画などをおさがりとして楽しめる、ある意味英才教育の土壌がありました。また、小学校に上がる頃にはベータマックスのビデオデッキがあり、家から歩いて数分のところに個人経営のレンタルビデオショップがあったので、そこでよくスターウォーズやカンフー映画などを借りて観たり、トムとジェリーやチップとデールなどを擦り切れるほど見たりして過ごしてました。
僕が生まれてから10歳くらいの時期の沖縄は、テレビはまだ民放が2局しかなく、フジの水曜7時台に放送されていた北斗の拳やドラゴンボールは問題なく観られていましたが、日テレ系列はキン肉マンのようにメジャータイトルは放送があったものの、シュラトがシーズン途中で打ち切りになってしまうなど、まだまだ文化的には低い位置にありました。
余談ですが、神野さんの「沖縄オタククロニクル」では80年頃の描写の中で「沖縄では見られなかった宇宙大作戦(スタートレックの日本版タイトル)を東京で観た」とのお話をされていましたが、僕の記憶では84年頃になると朝6時という早朝も早朝の時間帯に沖縄でも放送していた時期がありました(まあその時点で初回放送から20年経過しているレトロな番組という印象ではあった) あと何故かベティ・ブープも一緒に放送してたな。あと、バイファムが打ち切りになって署名運動が起こったという話は本を読むまで知りませんでした。そりゃ最終回覚えてないわけだわ・・・。
また、漫画誌もジャンプ・サンデー・マガジンともに週刊誌は4日遅れが普通で、そのため懸賞は発売日に買ってその日の午前中には送っておかないと間に合わないかも~なんて時代でしたね。当時は本屋自体は市内にもたくさんあったので、マニアックなものでなければ購入に困るようなことはありませんでした。
そして僕が生まれた年は後の日本に大きな影響を与える「スペースインベーダー」登場の年でもありました。スペースインベーダーは1978年6月頃から販売され、瞬く間に日本中を熱狂させ、後のゲーム文化への礎を築いたタイトルです。生まれ年にブームだったんで、近所にあったボウリング場のゲームコーナーで最初期の筐体(モノクロモニターでカラーフィルムが張ってある)が隅っこに積まれているのを見たことがあるなって程度なんですけども。
ともかく、このインベーダーブームから始まるデジタルゲームの潮流は、後にアニメや漫画などに並ぶオタク趣味のいちジャンルとしても成長していくこととなります。