僕のオタク・サブカル思い出(30)
97年末ごろ、友人から「宜野湾のイーグル2(国道58号線沿いにあったパチスロ店と併設のゲーセン。すでに建物ごと消失)にDJシミュレーターっていうゲームが入ったらしいぜ」という話を聞きました。この当時はDJ経験はありませんでしたが、いちおうダンスミュージックの素養はありましたので是非見に行きたいとなり、さっそくみんなでゲーセン遠征。
そこで待ち受けていたのはコナミの「ビートマニア」でした。ビートマニアはゲーム好きならもはや説明不要の、現在の音ゲー界隈の原点ともいえるゲームです。当時の筐体は5鍵盤+右側ターンテーブルの構成で、最初のバージョンは全9曲、しかもステージ事にジャンルの縛りがあり、判定も結構シビアでした。最終ステージに待ち構える「20,November」の難しさは何度も泣かされましたね(でも曲の良さがそれに勝っていた)
まあ正直、最初のバージョンは曲数が少なかったうえに難易度も高めで、おいてるゲーセンも結構遠かったということもあって数回しかプレイしたことはありませんでした(内心「いやDJってこんな鍵盤使わんよ」みたいなのもあって若干バカにしてたのはある)
数か月後、沖縄市の「ジョイジャングル」というゲーセンにビートマニアの次のバージョン「2ndMIX」が稼働していたので久しぶりにプレイしてみたら、曲が3倍くらいに増えてたうえ、収録されていた曲の中でもひときわ「OVERDOSER(driving dub mix)」の出来が異様に良くて、ちょうど「BERLIN TRAX」(石野卓球)でインダストリアルなテクノに目覚めていた僕は強烈なパンチをもう一発浴びたような気分でした。以降、僕は曲を聴くために音ゲーを遊ぶようになります(今でも続いてるので、もうそろそろ30年くらい音ゲーやってますね・・・)
初代ビートマニアが稼働開始した頃のゲーセンなんですが、格ゲーブームの絶頂期から少し落ち着いたくらいのところで、その他のトピックだと「怒首領蜂」のヒットに代表される所謂「弾幕系」シューティングゲームが猛威を振るい始める頃です。ゲーセンはまだまだレバー+ボタンのアップライト筐体が大部分を占めていて、店の外側にクレーンゲームとプリクラが稼働しており、格ゲーブームの最初の方と比べると段違いに明るい雰囲気に変わっていました。
その中にやってきた音ゲーなんですが、ゲーセンの様相を大きく変えたのはビートマニアの後にやってきた「ダンスダンスレボリューション(以降DDR)」の方だったように思います。DDRは足元の4枚のパネルを画面の指示通りリズムよく踏んでいく、こちらも現在まで続く人気シリーズですね。DDRは筐体が大きいのとギャラリーが観てて面白いというのもあって大人気機種となり、同時期に稼働開始した「ポップンミュージック」と併せてどんどん勢力を伸ばしていました。
また、それに続いて稼働開始した「ギターフリークス」と「ドラムマニア」(それぞれギターとドラムの音ゲー。こちらも現在「GITADORA」としてシリーズ継続中)も話題となり、それに伴いゲーセンも徐々に賑やかになっていました。
当時の印象はビートマニア、ギターフリークス、ドラムマニアは「演奏」に特化していて、ポップンミュージックは「複数人でワイワイ楽しむ」という遊び方を提案していました(が、すぐに「一人で9ボタン全部使う」が定番化していました) DDRは当時東芝EMIからリリースされていたコンピレーションアルバムシリーズ「ダンスマニア」から多数の版権曲を収録しており、よりパーティー感のある明るい曲が沢山収録されていたのも人気の秘訣だったように思います。
2000年前後くらいは各社から様々な音ゲーが発表されており、後に長期シリーズとなるナムコ「太鼓の達人」や、スクラッチに特化した「クラッキンDJ」、パラパラで踊れる「パラパラパラダイス」、マラカスを振って遊ぶ「サンバDEアミーゴ!」など有象無象の音ゲーが登場。
またビートマニア自体も5鍵盤から7鍵盤に増えた現行シリーズ「ビートマニア2DX」と5鍵盤+スクラッチ+フットパネル構成の「ビートマニア3」が登場したり、DDRも一人用専用で斜め前にパネルがふたつ増えた「DDR SOLO」などが稼働していました。
県内のゲーセンは、格ゲーブームの頃にできたお店は2000年頃くらいまでは大体残っていたイメージでしたが、ちょっと辺鄙な場所にあったようなところは徐々に淘汰されていったのかなあという印象です。インベーダーハウスブームくらいの状況にちょっと似てるかもしれませんね(リアルタイムで見たことないけど)
ビートマニア登場以降も格闘ゲーム自体はそれなりに人気が持続していましたが、そこから数年で音ゲー登場によるゲーセンの「テーマパーク化」が加速し、また格闘ゲームの対戦環境の高レベル化とゲームルールの複雑化による新規客の参入が徐々に難しくなっていく状況に加え、格闘ゲーム以外にアップライト筐体用のゲームのヒットも生まれなかったため、じわじわとスペースが減らされていました。
さらに追い打ちをかけるように家庭用ゲーム機もPS・SSの次世代機にあたる「プレイステーション2」と「ドリームキャスト」が発売となり、ゲーセンで稼働していたタイトルがほぼそのまま家庭でも遊べる時代に入りつつあって、ゲーセンの大型筐体設置の波は止められない状況で、それでも格闘ゲームは対戦という強みでもうしばらく生き残るものの、メインストリームに返り咲くことは難しい状況でした。
沖縄市内では胡屋のジョイジャングルとタイトーパセオ以外に、その2店舗の間に「ジョイジャングルビート」という音ゲー専門店がオープンし、コナミの音ゲーが全部遊べるようになってました。また、コザ十字路の「バトルテックビート」では後に訴訟問題になったりもした韓国の「EZ2DJ」が稼働していました。うるま市にはやっと赤道に大きいスペースのゲーセンが現れ、通りに面した窓際にDDRが設置されプレイするのがちょっと恥ずかしかったりしましたね。
北谷町には、パームスプリングというレストランの入ってるビルの1階にゲーセンがあり、そこはほぼ24時間営業の状態で(0時から1時まで一旦閉店する、みたいな業態だった気がする)夜中ゲーセンで遊びたい!となったらよくそこに出かけて遊び倒して明け方のどん亭(当時は沖縄市にもあった)になだれこむ、みたいなことしてました。入口すぐのところにジャレコの「VJ」や「ステッピングステージ」が設置されてましたね。また、美浜地区にハイテクセガがオープンしたのも多分97~98年頃だったと思います。
那覇の方では音ゲーブームと共に台頭したゲーセンもいくつかあり、国際通りでは「夢咲創庫」というゲーセンがコミュニケーションノートや時間制のインターネット端末などがあって大人気だったと聞いています。同じく国際通りのインナハにもあのギチギチの店内に音ゲー筐体が置かれてましたね。他にも有象無象のゲーセンが国際通り近辺に出現してて、ダーツとかビリヤードなんかを扱ってる店の一角に異様に音のでかい筐体が設置されてたり、アーケード街の隙間のテナントに所狭しと並べてるところもありました。
格闘ゲームブームの頃とはちょっと異なり、大きいゲーセンが目立つようになってきた時期でしたが、格ゲーの緩やかな衰退と共にアップライト筐体が少なくなり始めた時期でもあり、ちょっとそこは寂しいなあと思った頃でしたね。
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