僕のオタク・サブカル思い出(13)

  僕が小学校高学年くらいから中学校時代にかけて、家庭用ゲーム機はもちろんですがゲーセン自体にも様々な環境の変化が訪れます。
 1988年のアーケード版テトリスの大ヒット、そして1991年の「ストリートファイター2」の爆発的ヒットとUFOキャッチャーによるプライズゲームの盛り上がり、さらに1992年アーケード版「ぷよぷよ」のヒット等を経て、1995年の「プリント倶楽部」稼働開始によって段階的にゲーセンが「明るい場所」へと変貌していきます。

 僕たち世代にとっては「ストリートファイター2」の登場でゲーセンでの遊び方は一変しました。今までみんなで「如何に長く遊んでクリアまたはハイスコアを取るか」というのが基本だったのが、プレイヤー同士で対戦することの面白さを与えられてしまったからさあ大変。噂にも聞くとおりインカムが徐々に増えていき、ゲーセン自体がどんどん活性化していきます。類似ゲームも大量にリリースされる中、やはりカプコンとSNKの2大巨頭が対戦台を占拠していました。

 僕が初めてスト2をプレイしたのは沖縄市胡屋にあったハイテクセガの2階。スト2稼働当初は向かい合わせの対戦台はまだ無く、大体はコンパネの左右で並んでということになるんで、友達同士で仲良く(?)キャラを譲り合ってバトルしてました。あのときのハイテクセガは1階にラッドモビールがあって、2階の階段上がって左側にスト2とぷよぷとが配置されてたのと、真ん中の島にテーブル筐体の「アラビアンファイト」や「チャタンヤラクーシャンク」(漢字で書くと「北谷屋良公相君」でおなじみ)、反対側の壁に「琉球」「宇宙戦艦ゴモラ」「ピストル大名の冒険」があったような・・・。
 対戦が本格化してきたのはスト2ダッシュくらいからだと記憶してるんですが、ゲームそのものの面白さもさることながら、火付け役としてアーケードゲーム専門誌「ゲーメスト」と、本来はプログラムを掲載するはずの雑誌なのに何故かゲーム記事が熱すぎる「マイコンBASICマガジン(ベーマガ)」の2誌があったのではないかと思います。どちらも全国の提携ゲーセンから集計するハイスコア記事があることでも有名でしたが、格ゲーにおいては前者は各キャラの攻略法や戦い方の基本などを解説する記事が多く、後者は対戦の熱さを伝える企画「バトル・オブ・スト2」が人気でしたね。
 以降、SNKが「餓狼伝説」を稼働開始させて格闘ゲームの大ブームが巻き起こり、音ゲーが台頭する99年頃まで続いたのち、2000年に入ったあたりから徐々に沈静化していきます。この頃はまだ2D格闘ゲームが基本ですね。

 ちょうどスト2ターボくらいになったあたりで僕たちは徐々に高校受験を控えて塾などに通うようになります。僕も塾に行かないと高校受験ヤバいかもと思い、コザ十字路にあった塾は友達も多かったので親にお願いしてみたんですが「いや、家の向かいに知り合いがやってる個人の塾があるからそこに行け」と強制的に決められてしまいます。しかもその塾、同じ中学のヤンチャな子ばっかり通ってるところで、塾の講師が空手道場の師範もやってるというほぼ矯正施設じゃん!っていうところだったんで、勉強には集中出来たけど色々キツかったなあ。
 ただ、友達が通ってた塾は古本屋の2階にあり、その建物の隣にひとつ前の回で書いたNEOGEO貸出もしている「ロム」というゲームショップがあって、そこが対戦台×3の好条件で地元中学生の格ゲーのメッカになっていたため、多分そこに通ってたら勉強せんと古本屋かゲーセンに入り浸ってロクなことにならなかった可能性もありましたけどね・・・。

 この頃のゲーセンで思い出す、ある小さな店舗のお話。沖縄市の北側にある知花十字路から嘉手納町向けにすこし行ったところに、当時看板も掲げていない敷地10畳程度の小さいゲーセンがありました。いかにも昔の商店を改造した作りになっており、店の7割がゲーム、残りは店長のおじさんがいるカウンターと販売用のアーケードゲーム基盤置き場になっていました。店の名前は決まっていませんでしたが、そこの両替機の横に落書きされたガチャピンとムックから地元の子供たちからは「ポンキッキ」と呼ばれていました。
 このポンキッキのおじさんは電子工作が得意らしく、店内の筐体の一部は手作りのコンパネだったり改造筐体(レースゲームの筐体のハンドルを外してコンパネを設置するとか)があって、明らかに他のゲーセンとは違う手作り感の強いお店でした。
 F-ZEROの記事目当てに買ってたベーマガの後半50ページくらいは当時のアーケード基盤の通販カタログになっており、それと共に家でも遊べるコンパネの商品紹介なんかも沢山乗ってて、コンパネと基盤があればゲーセンのゲームができることを知識では知ってたんで、カウンター奥にひしめきあっているいろんな電子部品を眺めながら「僕もいつかコンパネ買って基盤でゲームやってみたいなあ」と話すと、おじさんは「もしこういうのに興味があったら、おじさんが手伝ってあげるからね」とにこやかに話してくれたのを今でも覚えています。

 高校生になってから知ることなんですが、このおじさん実は格ゲー全盛期の頃には沖縄市内だけで4~5件のゲーセンを経営する結構なやり手だったようで、ポンキッキにあった基盤は各店舗の在庫ということだったようでした。後に格ゲーブームがじんわりと収束しつつある頃には徐々にその規模を縮めていき、高校2年生くらいの時期にはポンキッキも閉めて、たしか2000年頃にすべて閉店してしまいました(Xの #沖縄のゲーセンクロニクル の投稿で2003年までゲート通り側にあったファイターチャンプは営業していたようです。思ってたより長い営業期間。)
 ちょうどその前後くらいに母から「近くに小料理屋が出来たから今日の夕飯はそこで食べよう」と、家から徒歩2分くらいの超近所にある小さなお店に入ったら、なんと奥から注文を取りに来た大将がポンキッキのおじさんで、「ごめんなさい、以前に知花十字路のとこでゲーセンやってましたよね?」と聞くと「おお、よく知ってるね!」との返答。その時に聞いたのは「手先が器用で電子工作もやってたけど、一度でいいから飲食店をやってみたくて店を出したんだよね」という事で、すごくにこやかに料理を提供していただきました。ただそのお店も半年ほどで閉店しちゃったんだよなあ・・・ポンキッキのおじさんまだお元気だろうか。

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