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僕のオタク・サブカル思い出 目次+年表

シリーズ記事「僕のオタク・サブカル思い出」目次

僕のオタク・サブカル思い出(39)

  現在高校生の僕の息子は、高校生になるまでスマホ、タブレット、PCなどの情報機器は特に与えていませんでしたが、高校入学の頃までには立派なオタクに成長していました。いや本当なんです別にオタクっぽいコンテンツを与えてたとかもないし、中学まで家ではマンガもコロコロくらいしか読まなかったような子なんですよ。  ただその過程が実に現代の子だなあと思ったのは、その入り口が「ニンテンドー3DSのYouTube」だったってことですね。これは完全に盲点でした。そこからネットミームに汚染されていき徐々にオタク化していったという流れです。まあミーム汚染されるっていうのは元々オタクの素質があるからなんですが。しかし何がきっかけになるか本当にわからないものですね。  最近はオタクコンテンツもそこらじゅうにあふれてきており、そういう趣味があることが特殊とも言えないってくらいに浸透しているのを感じます。お茶の間でTVer使ってテレビ番組見てたらウマ娘のCM流れてくるとか普通ですもんね。89年のあの事件以降しばらく根深かったオタクへの白眼視は、実際に僕ら世代に暗い影を落としていましたが、その白眼視されていた世代のオタクが親世代となったことで徐々に変化しているように思います。  もちろん田舎特有の目は普通にあるんですが、それでも今の中高生はボカロや東方を普通に摂取していますし、推しという生き方があることを当然のこととして受け入れているように見えます。まあ僕ら世代のオタクにとって一般層向けのマスメディアは敵と認識しているところもあって、マスメディアのオタク文化を取り扱うときにたまに見受けられる浅い理解を見るとまだ苦々しく思ってしまいますけど・・・。  「あそびにいくヨ!」が地元を舞台とした内容だっただけでも驚きだったのに、「沖縄で好きになった子が方言すぎてツラすぎる」(通称「沖ツラ」)はアニメ中に出てきたエリアが聖地として観光マップにされるまでになりましたし(家から車で10分の場所がアニメに出てきたときはさすがにびっくりした)、県内企業もイメージキャラクターとして引用するケースが多くなっています。まさか社会貢献にまで発展するなんて、僕らの時代ではちょっと考えにくい話でしたよね。  そしてこの10年ほどで情報と物資に対する「飢え」もかなり少なくなっていますよね。通販するのも簡単になったし、アニ...

僕のオタク・サブカル思い出(38)

  僕自身はオタクとして、そしてサブカル好きとして、かなり恵まれた人生を歩んでいるという実感はあるんですが、そこからちょっと引いて「沖縄のオタクってこの40年くらいどうやって活動してたの?」について、僕自身の実感で振り返ってみます。  僕よりも一つ上の世代である神野オキナさんの著書「沖縄オタククロニクル」に感化されてこのシリーズをずっと書き続けているんですが、神野さんは自身の人生を「とにかく情報と物資に飢えている時代だった」と振り返られています。  現在のように大概のエンタメがネットで得られる時代と異なり、40年くらい前は情報が入ってくるのがかなり遅い(週刊誌は3~4日、月刊誌は7~10日、テレビ番組は2~3か月遅れが当たり前)という状況でした。アニメ雑誌には知らない作品もたくさん載っており、その半分くらいは沖縄では放送される予定が無いということもザラでした。とはいえ僕はあんまりテレビ見てなかったので、それを歯噛みしながら享受するっていうほどでもなかったかなあ。結構早い段階からあきらめちゃってたというのはあるかも。  逆にゲームは発売日に手に入る環境がかなり早い段階からあったんで案外不満感は無かった、ということもあるのかな。意外にゲームはわりと優遇されているというか、体験型のもの以外は実は他の地方より充実してるかもしれないっていうくらい沢山入ってきてましたね。  小学生のときに直撃したオタクバッシングの波は、正直無視できないほどに大きかったように思います。目に見えて嫌われていたのは数年程度だったけど、その数年の間に「蔑視してもいい存在」という風にされてしまったのが辛かったな。  僕が学生の頃もやはりオタクは日陰者で、僕も見た目も相まってイジられ対象ではありました。ただ僕の場合ハマってたのがゲームの方だったので、そっちで気持ちを共有できるクラスメイトが一定数いたおかげで少人数グループで難を逃れられてました。  また、勉強はそんなに出来ないけど基本的には真面目に過ごしてたのと、父に職場の人のいるとこ(=大人がたくさんいるとこ)へ連れまわされていたので、年上に対するいかにも優等生的な立ち回りは身に着けており、そのおかげで先生ウケは良く、それで目をかけてもらってたのでヤンチャなのが近寄りにくい環境になってたので、目に見えて迫害されるようなことも少なかったのは良かった...

僕のオタク・サブカル思い出(37)

  なんやかんやありまして、2003年8月に結婚し、子が生まれました。それ以降の活動については(既に20年以上前の話も含んでいますが)ログが結構ネット上で確認できるため、結婚後から現在までの活動記録と、その近辺の文化や状況で僕がわかる範囲の話をかいつまんでいきます。 同人活動:  現在もおでかけライブが定期的に沖縄コンベンションセンターにて開催されていますが、僕らが20代前半の頃のようなほぼ毎月というペースではなくなっています。また近年増えているのはオタクとあんまり関係ない物も扱っているハンドメイドのアクセサリーや小物等のブースですね。男女比はまだ6~7割程度ですが、サークル参加している男性も以前よりは少し増えてるなーという印象です。曲作ってCD売ってるサークルも少数ですが存在しているようです。Macろけって結局1回もブースに居るの見たことなかったな・・・。  実際のところ、同人活動って主戦場の半分がネットに移行しているところもあり、本を自分で作って売るという文化自体もちょっとずつ縮小化している一方で、デジタル作画環境などツール側が進化することで制作へのハードルが下がったこともあり、クリエイターの人口は増えているのかなあとも思います。そこらへんの均衡が今の県内の即売会の雰囲気を作ってるのかもしれませんね。  僕はというと、30代になって、奥様(妻のこと)の暗躍により同人サークル「ソフト闇金」を立ち上げ、2年ほど活動していました。人生初のオフセット同人誌、コミケでの頒布、ボカロCD持ってVOCALOiD M@STER参加(ウィザーズスターが縁でうちのサークルに「炉心融解」のirohaさんから差し入れを頂くというサプライズがありました)、ゲーセンのイベントやクラブイベントでのブース出展など、濃密な2年間を過ごしました。  また40手前で今後はINGRESSの同人誌を出すために僕がサークル「カビパン」を立ち上げ2冊の同人誌を制作。殆ど自分で制作するうえ2冊目はCD付きだったので地獄の作業量だったうえ売り上げは芳しくありませんでしたが、この活動を通して出会った人も多く、経験は貴重なものでした。 ゲーセン:  県内のゲーセンは個人経営の店舗がどんどん消えていき、那覇の「ゲームインナハ2」の閉店はテレビのニュースでも取り上げられましたね。現在残っているゲーセンも殆どがク...

僕のオタク・サブカル思い出(36)

  2001年、僕はようやく定職に就けることになり、長かったモラトリアム期を抜け出すことに成功しました(まあしばらくめちゃくちゃ給料安かったんですが・・・)  達名やNEXT秘密基地があった頃のように大勢で集まって遊ぶっていう機会はほとんどなくなってしまいましたが、この頃には携帯電話も標準装備だし、だいたいみんなオンラインにいるので会えてなくても近況がわかるくらいには近くにいるねっていう感じ。  また、来兎さんが2001年の10月くらいに上京するということになり「じゃあ今度の冬コミは東京行くんで泊めてね~」などと厚かましいお願いをしつつお見送りをしたのに、ひと月もしないうちに沖縄にいたときと変わらない距離感でMSN Messengerでやりとりしてたってくらいでしたね。  なお、その年の冬はボーナスを丸々突っ込んで実際に初めてのコミケ参加を果たし、その足で秋葉原に行って中古のCDJを2台買い、そのまま当時は千葉に住んでいた来兎さんのアパートに転がり込んで年越しするなど活動は多岐にわたっていました(しかも 当時仲良くしてたテキストサイトの人 もお呼びして3人で正月中雑魚寝してた)  さて2002年。僕はメインのウェブサイトを移転させ、でもそこでも相変わらず日記は書き散らすわ掲示板でグダグダやってるわであんまり変わらない日々を送っていたんですが、軽い気持ちで掲示板だったかに「CDJ買って練習してるんで、いつか人前でDJできたらいいなあ」などと書いてたら「じゃあうちでやりませんか?」というレスポンスが。  詳しくお話を聞くと、その方が主催しているパーティーの次回開催でゲストDJの枠があるので出演しませんかとの事。場所はなんと東京都目黒区自由が丘! その後なんやかんやあって、理解が追いつく前に東京でのDJデビューが決定してしまいました。  その時の旅行記がまるまる当時の日記として残されているので久しぶりに読み返してみました。そうそう、2002年7月12日に東京行きなのに、当日日本は3つの台風が襲来しており、しかもそのうち一つは沖縄の真上に来ていたのでした。とはいえ強風域のみで熱帯低気圧に変わりかけていたので飛行機はフライトを決行、なんとか無事に東京にたどり着くことができました(帰りの日も台風が襲来していたけどなんとか予定通り帰れた) 初日はゲーセンを巡りつつ、上京し...

僕のオタク・サブカル思い出(35)

  昔開設していたウェブサイトに書き散らしていた当時の日記を読み返していて「これってこの時期か!」って思い出した話を。  何度か書いてるかもですけど、この時期のクラブにおける「テクノイベント」って、大体はどこに行っても良くてハードハウス、場合によってはダッチトランスで、ハードミニマルに心を奪われていた僕にはちょっとパンチが足りないなあという感じでした。ある年のクリスマスに沖縄市の「クラブピラミッド」(旧ディスコピラミッド、1954年開場のピカデリー国映という映画館を改装して85年~86年頃にオープン。現在はすでに閉店。)でクリスマスパーティーでテクノやるってんで遊びに行ったら、DJが出来合いのDJミックスを流してブースから居なくなるという瞬間を見てガッカリ、なんていうこともありましたね。  2000年7月、僕は来兎さんと一緒に国際通りに当時あったGET HAPPY RECORDSというレコ屋さんに向かいました。目的は「自作のCDを置かせてもらう」です。以前より2つ置かせてもらっていたんですが、毎回ドキドキなので今回は付き添い込みです。  ちょっと遡るんですが、ここで置かせてもらったカセットやCDのおかげで、ネット上とはまったく別のリアクションを貰うことが度々ありました。当時は個人情報の感覚が薄くライナーに普通に自分の住所書いてたんで、時には奥付だけ書かれたカセットテープが送られてきて中身がゴリゴリのナードコアだったり、ノイズというか独特のミックスダウンで聴きづらいけどやりたいことは伝わって面白いインダストリアルなテクノのテープが送られてきたり・・・なんか当時からテクノやってるやつってみんなコミュ障だな! でもなんか妙な連帯感から、それぞれに感想のお手紙を送った記憶があります。みんな元気にしてるかな。  話を戻します。店内に入りカウンターにいたオーナーに「すみません、自作のCDを置かせてほしいんですけど・・・」と話しかけCDをお渡しすると、それを見てオーナーが「あれ、君ってこないだFMたまんの番組に出てたよね?」  「FMたまん」は糸満市のコミュニティFMで、どういう経緯だったかは失念しましたがその年の5月にお呼ばれして曲作りの事などについて話したりしていたのでした(当時のログによると2000/05/11放送だそうな) その時の番組のパーソナリティとオーナーが...

僕のオタク・サブカル思い出(34)

  前回の話からちょっと遡って99年の7月、誕生日の勢いにまかせて当時の僕はついにPC98からDOS/Vマシンへの移行を図ります。世はすでにWindows98が席巻しており、ソーテックがiMacそっくりのPCを発売してappleからめっちゃ怒られたあたりですね。  その頃まで使ってたWin95の乗ってるPC98ではもうスペックがかなりキツかったことと、ようやくバイト等で自分のお金が使えるようになったこともあり自分専用のPCが欲しい!という流れで、当時最も安価で評判もいいCeleron 300Aを選択(300MHzをオーバークロックさせて450MHzにするのが流行ってました)、拡張性も考えて結構でっかいタワー型のケースと奮発しました。  で、Win98搭載のDOS/Vに乗り換えたことで何が起きたかといえば、ついにMIDI音源の縛りから解放されたという点がめちゃくちゃ大きかったんです。  高校生から浪人生くらいの頃はPC98とMIDI音源をRS-232Cケーブルで繋ぎ、他のMIDI音源はそれぞれMIDIケーブルで接続したうえですべての音源に電源を入れ、PCのシーケンサで各機器をコントロールする流れでした。最終的に僕のMIDI音源は自分で買ったSC55mk-2、Wさんから譲ってもらったMU80に加え、来兎さんのおさがりのSU10というサンプラーの3台構成になり、特にSU10のおかげで声ネタも使えるようになって、環境的にかなり強力にはなっていました。  ただ、サンプラーの方は波形ファイルの編集をSU10のパネルで行う必要があったんで編集で結構手間取るということが多かったのと、内蔵メモリの制限があったので音を厳選する必要があったんで、気軽に使えるとはいえ結構手間のかかる機器でした。  DOS/Vに移行したことで、オンボードのサウンドチップでもPCM音源が使えるので、PC上で波形ファイルが編集できるようになったことがまず大きな変化なんですが、もう一つの大きな変化が「レコンポーザから別ソフトへの移行」です。  レコンポーザは元々PC88/PC98用ソフトなので、DOS/Vに移行すると使えなくなってしまいます。まあその頃にはすでにWindows版も発売されていましたが、せっかくDOS/Vに移行したんなら、ということで僕が使いだしたのが「MODトラッカー」です。  MODはホ...

僕のオタク・サブカル思い出(33)

  99年から2年間専門学校に通い情報処理の勉強をしつつ(その時の講師がCOBOLの人だったのは良かったけど「お前たちが卒業する頃に2000年問題があるからな、銀行系はCOBOL理解してないと何もできないんだからしっかりやれ!」っつっててダメだこりゃと思ったりしつつ)、コンビニでバイトとかしつつ、気が付くと卒業しちゃってました。後にそこで習得した技術と全然関係ないとこに就職するんですが、まああれはあれで楽しかったな。学校のPCに勝手にBM98入れてこっそり遊んでたりしたし。  在学中にインターン的なの行ったけど馴染めなくて社会的にダメ人間であることを痛感させられ、何も決まらないまま卒業し、とはいえ何にもしないわけにもいかないだろうということで、当時北谷町にあったPCショップにバイトとして潜り込むことになりました。  当時は空前のDOS/Vマシンブームで、インターネットやるなら自作マシン組むでしょ的な空気があった頃でした。同世代くらいのには「Celeronのオーバークロックがめっちゃ流行ってた時期」と言えば思い出せるあの時期ですね。当時のCeleron好きだったなあ、CPUがファミコンのカセットみたいに挿せたんですよ。  そして当時は北谷町にそういったPCショップが国道58号線沿いに大小合わせて4~5店舗あった時期でした。また沖縄市ではコザ高校近くからコリンザ1階にベスト電器コンピュータウンが移転したあたりだったと思います。あの当時、かそのさんが「沖縄PCホットライン」というサイトを運営しており、個人的趣味で各ショップを訪れパーツの値段比較表を掲載していて、自作PCを作るオタク達はほぼ全員そこにお世話になってたと思います。あれから25年、現存してるPCショップはGoodWillだけですねえ(元々はパソコン工房だった)  僕がお世話になってたショップは土地柄もあって外国人向け(というか米軍人向け)のお店で、店内表示も円とドルの併記になってました。実際お客さんも半数以上がアメリカ人で、僕は全く英語喋れないんで接客はいつもおっかなびっくり。社長は日本人でしたが渡米期間が長かったらしく当然のように英語ペラペラ。あと当時の副社長は「マンガに出てきそうな大陸の人」そのまんまの人でした(お金に厳しい以外はめちゃ良い人でしたよ)  配置された部署の先輩は5つ上のお姉さまで、英...

僕のオタク・サブカル思い出(32)

  沖縄の同人サークルNEXTは、女性が8割を占めていた当時のサークル参加者の中でも異彩を放つ「男性のサークル」かつ「出るときは確実に新刊があるサークル」でした。特に後者って、便せん等のグッズを置いてたりペーパーを置いてたりが普通だった中で実は意外に少ないんですよね。  そのNEXTに、96年あたりから新しいメンバーとして「サガヲ」さんが加わりました。経緯は僕も詳しくないんですが、独特の絵のセンスと不思議な語り口に加え、ゲームのプログラムが書けるという点が当時的には稀有な存在でした。  97年に達名が閉店したのち、NEXTは某所に「NEXT秘密基地」なる拠点を立て、そこに機材を持ち込みゲーム開発を始めます。  秘密基地はNEXTメンバー以外は基本的に立ち入りに許可が必要で、初期の頃は気軽に「行っていい?」って言えるほどの立ち位置ではなかったので、中の様子の詳しいところまでは把握していません。ただ数回訪れたことはあり、だだっ広いポンリュームの部屋に段ボールやビニールゴザが敷かれ、そこに数台のタワー型DOS/Vマシンが並んでました。僕が行った日は98年のお正月で寒い時期だったのでメンバーがPCの裏に回ってファンで暖を取ってたのはよく覚えてます。なんか文章だけで説明するとアメリカ人がガレージで起業するみたいな話だ。  NEXTのウェブサイト上で、サガヲさんはミニゲームを定期的に作っては発表していました。四方八方からやってくる敵弾を避けるだけのシュールなゲーム「戦場の娘」や今でもファンの多いスト3のブロッキングの練習のために作られたゲーム「OQR」など、独特のビジュアルとマイクで直接吹きこんだBGMがクセになる面白さで、じわじわと人気を得ていきました。その裏で、のちに代表作となる横スクロールシューティングゲーム「ウィザーズスター」の開発が進んでいました。構想自体は96年末くらいからは始まっていたと思います(その頃にマエカワさんに主人公の原案を見せてもらった)  ウィザーズスターは1と2(正確には無印版と2nd)があって、1の方は後日ウェブサイトの方で公開されたんだったかな。その際の開発現場には僕は殆ど立ち合えていなくて、目撃したのはほぼ完成しているバージョンで、ハムスターからとんでもない量の弾幕が放たれているシーンで大興奮してましたねー。  2の開発が始まった頃に秘...

僕のオタク・サブカル思い出(31)

  以前にも書きましたが、僕はダンスミュージックが大好きで、その中でもテクノとハウスに傾倒しています。今では曲を配信しつついろんなところでDJをさせていただいてますが、そこに至るまでの話をちょっとだけ。  多分97年~98年くらいだと思うんですが、僕は地元の同人誌即売会に自分のCDと当時比較的手に入りやすかったテクノのCDのレビューをまとめた同人誌をもってサークル参加しました(今考えても無謀すぎるし実際全然出ていかなかった)  その際に、先日の同人誌即売会の回で書いたTさんのサークルでTM Networkのツアーパンフで盛り上がったりしてたわけですが、同日にサークル参加されていた方でキレイな絵の同人誌と共にハウスのDJミックスをCD-Rにして配布されていた方がいて、DJミックス?!こんなとこで?!と大興奮。もちろん内容も素晴らしく、当時ハウスというジャンルは知っていたもののブラックボックスで情報が止まってた僕には宝箱のような内容でした。  そこからちょこちょこと交流があり、後日その方が那覇市久茂地のDJができるバーに店員として居るという話を聞きつけ早速おでかけ。半ば押しかけの状態でしたが生でDJを聴かせていただき、音楽の話も聞かせてもらったりして、二十歳そこらの僕にはかなり刺激的な体験でした。それ以来僕はその方を「DJの師」とすることとしました。その節は本当にありがとうございました。あのとき「ハウス作ります!」って息巻いてたけど実際作ると難しいっす・・・ 十数年後にボカロ使ってほぼネタみたいな曲作った 以外は2ステップとハードハウスしか作れなかったな。  ちょうどそのあたりの時期の、ビートマニアが世間でもかなり認知し始め音ゲーを中心にプレイする人も現れ始めた頃に、那覇市国際通りに当時あった「BUMP」というクラブがわりと頻繁に大物DJを招聘してパーティーを開催してました。僕はそこで Ken Ishii 、 Hiroshi Watanabe 、 Captain Funk 、そして 石野卓球 のDJを生で見ることができました。  ご存じない方に説明すると、まず前者のKen Ishiiは日本におけるクラブミュージックとしてのテクノの黎明期から日本人としてイギリスR&S Recordsから曲をリリースしていた所謂「東洋のテクノ・ゴッド」と称される方ですね。後...

僕のオタク・サブカル思い出(30)

  97年末ごろ、友人から「宜野湾のイーグル2(国道58号線沿いにあったパチスロ店と併設のゲーセン。すでに建物ごと消失)にDJシミュレーターっていうゲームが入ったらしいぜ」という話を聞きました。この当時はDJ経験はありませんでしたが、いちおうダンスミュージックの素養はありましたので是非見に行きたいとなり、さっそくみんなでゲーセン遠征。  そこで待ち受けていたのはコナミの「ビートマニア」でした。ビートマニアはゲーム好きならもはや説明不要の、現在の音ゲー界隈の原点ともいえるゲームです。当時の筐体は5鍵盤+右側ターンテーブルの構成で、最初のバージョンは全9曲、しかもステージ事にジャンルの縛りがあり、判定も結構シビアでした。最終ステージに待ち構える「20,November」の難しさは何度も泣かされましたね(でも曲の良さがそれに勝っていた)  まあ正直、最初のバージョンは曲数が少なかったうえに難易度も高めで、おいてるゲーセンも結構遠かったということもあって数回しかプレイしたことはありませんでした(内心「いやDJってこんな鍵盤使わんよ」みたいなのもあって若干バカにしてたのはある)  数か月後、沖縄市の「ジョイジャングル」というゲーセンにビートマニアの次のバージョン「2ndMIX」が稼働していたので久しぶりにプレイしてみたら、曲が3倍くらいに増えてたうえ、収録されていた曲の中でもひときわ「OVERDOSER(driving dub mix)」の出来が異様に良くて、ちょうど「BERLIN TRAX」(石野卓球)でインダストリアルなテクノに目覚めていた僕は強烈なパンチをもう一発浴びたような気分でした。以降、僕は曲を聴くために音ゲーを遊ぶようになります(今でも続いてるので、もうそろそろ30年くらい音ゲーやってますね・・・)  初代ビートマニアが稼働開始した頃のゲーセンなんですが、格ゲーブームの絶頂期から少し落ち着いたくらいのところで、その他のトピックだと「怒首領蜂」のヒットに代表される所謂「弾幕系」シューティングゲームが猛威を振るい始める頃です。ゲーセンはまだまだレバー+ボタンのアップライト筐体が大部分を占めていて、店の外側にクレーンゲームとプリクラが稼働しており、格ゲーブームの最初の方と比べると段違いに明るい雰囲気に変わっていました。  その中にやってきた音ゲーなんですが、ゲ...

僕のオタク・サブカル思い出(29)

  高校卒業して浪人生になっていた97年頃、我が家についにWindows95が稼働するパソコンがやってきました。当時はまだPC98シリーズで動かしていて、MS-DOSのランチャーでWin95を起動してましたけど、その日から僕も晴れてWinユーザーとなったわけです。  Windowsがやってきた、ということはつまりインターネットブラウザが使えるわけで、やっとインターネットに接続できるようになったんですね。曲だけは先行して2年くらい前から置かれていましたが、その頃にようやくブラウザで自分の曲がどのように配布されているのかを目にすることができました。技術革新!  その当時はNiftyServeのインターネット接続サービスを使用していました(関係ないんですがNiftyは当時アメリカのCompuServeに接続できるサービスがありましたね。一回も使ったことないけど。) あの当時はISDNすらなかったので、画像表示が上からじわじわやってくるというインターネット老害あるあるもこの頃に体験してます。  再三書いているとおり、これまでパソコン通信は特定のホストに直接接続するのが当然の世界だったので、プロバイダに接続するとURLさえ知っていればどこまででも行けるといういわゆるワールドワイドウェブ(WWW)の概念を理解するのにちょっと時間がかかったのを覚えてます。  それと同時に、「特定のホストで特定のユーザーと仲間内の会話を楽しむ」という楽しみ方が普通だったものが、突然全世界が接続できる世界に放り出されたっていう感覚があって、しばらくはなんだか居心地が悪かったですね。  ちょうどこのあたりで、僕がアクセスしていたホストが閉鎖することになり、そこの常連がみんなIRC(インターネットリレーチャット)に移行するっていう話をしていた頃で、新しい技術にワクワクしている常連たちを横目に僕はちょっと居場所を追い出されたような気持ちになっていました。  思えば、あの当時からコミュニティ形成のツールとしてのネットとの付き合いは大体5~6年単位くらいで変化してたような気がします。このあたりから多くの人が自分のウェブサイトを運営するようになって掲示板を設置してましたが、そこから時代が下ると今度はウェブログ(ブログ)ブームがやってきて掲示板の文化も薄れていきました。さらにそこからSNS時代へ突入するん...

僕のオタク・サブカル思い出(28)

  たくさんの友達と出会い、なんやかんやで青春ぽいことをやりつつ、でも大学受験に大失敗して、僕はようやく高校を卒業します。あまりにも青春の思い出がゲーセンに偏りすぎていて学校で何したかあんまり覚えてないくらいでしたね。  学校で印象的だったのは、高校1年の時の学園祭で、1学年12クラスあった中の10組だった僕がほぼ初めて同級生の前半側のクラスの出し物を見に行ったら、窓ガラス全てに黒いごみ袋を張り付けて目張りし、そこかしこに当時のテクノのレーベルロゴ(RISING HIGHとか)を手書きしたものが張り付けられた謎の教室があり「こんなところにもテクノ聴いてるやついるんだ!」って感動したってくらいです。クラスメイト何人かにケンイシイとか貸してみたけど誰もピンと来てなくて、当時はグリーンデイのコピーバンドとか流行ってたなあ。  ちなみに、高校1年の時に出会い僕を達名に導いてくれたY君は3年間一緒のクラスとなり、高内外でもだいたい一緒に行動していました。一緒にゲーセン行ったり、彼を通じて知り合った他の高校の同級生たちと一緒に遊んだり、彼の参加してる部活のお手伝いをしてたら色々あって部員でもない僕も一緒に東京に連れてってもらったり、たくさんの思い出があるんですが本筋と関係ないので割愛します!  卒業式の後は晴れて浪人生にクラスチェンジしたんですが、卒業と同時にとある短期バイトを紹介してもらい、そのバイト代で達名の常連WさんからYAMAHAのMIDI音源「MU80」を譲っていただきました。  当時のオールインワンタイプのMIDI音源は(詳しいわけではないので間違ってるかもです)GM規格という各社共通の音色セットがあり、その拡張規格としてローランドのGS規格とヤマハのXG規格という2大フォーマットがありました。僕は高校入学時にGS音源のSC55mk-2を持っていたので、MU80が加わることでどちらの規格も(下のクラスですが)使えるようになった格好です。  このMU80の特徴が「外部入力の音声に対してエフェクトをかけることが可能」というもので、いわゆるギターのエフェクターのような役割も持ってたので、この機能を駆使しつつ2台まとめて録音できるようになりました。このエフェクター機能がすごい面白いんですよねえ。おかげで音作りにかなり幅が広がりました。  そのうえMIDI音源はMID...

僕のオタク・サブカル思い出(27)

  以前よりそういう世界があることは知ってはいたものの、高校生になってY君から誘われたことで初めて飛び込んだ「同人誌即売会」の世界は、89年のあの事件以降自分がひた隠しにしてきたオタクというアイデンティティを全部開放しても大丈夫な場所があるんだ!という喜びに満ちたところでもありました。それは会場に居た多くの人が同じ思いだったんじゃないかなあと思います。  僕が即売会に出入りするようになった最初の1年は、数か月に1回どこかの個人開催のイベントに参加するという感じでしたが、当初は殆どが那覇市教育福祉会館、たまーにJA会館(当時は楚辺のほう)だったので、大体はNEXTのみんなが行くので、誰かの車に便乗して連れてってもらうという感じでした。「沖縄オタククロニクル」で記述のあるVAIOは僕の認識では「沖縄最初期の同人誌即売会」という印象だったんですけど、そもそも出発点が違うというのは驚きでしたねー。  以降、多分95年くらいからだと思うんですがスタジオYOUの「おでかけライブ」が定期開催として定着して以降は個人による開催は殆ど無いのではないかと思います。那覇市民会館が定例で、年に1~2回沖縄コンベンションセンターで開催するのが00年代頭くらいまでで、以降は年4回くらいコンベンションセンターという感じですかね(そういえば隣の展示棟でもやってた時期ありましたね)  おでかけライブが定着する前後くらいから、如実にコスプレをする人が増加していたように記憶しています。元々女性の参加者が多いのは地方都市どこも共通していると思うんですけど、コスプレは自分が記憶してる最初のあたりはひと会場に10人いるかなっていうくらいで、だんだんと会場が大きくなるにつれて増えた印象です(コスプレ用のエリアが拡張されていったことと更衣室の確保のノウハウが積み上げられてきた、みたいな要因かもしれない)  男性が中心のサークルは常に少なくて、僕が高校生の頃は大体がNEXTと、ふじまるありくいさん等が所属していた超実力派のサークル「ハンサム団」、あとはガンダム中心サークルっていう看板だったはずの「UC0123」の3か所くらいかな。あとは時々単発で誰かが参加しているか、毎回スペースは取られているのにブースに行くと誰もいない「Macろけ」という謎のサークルも居ましたね(マジであれは誰だったんだろう)  当時もサ...

僕のオタク・サブカル思い出(26)

  僕が高校生の頃、入り浸ってたゲーセン「達人と名人」(通称「達名」)だけでなく、県内にはたくさんのゲーセンが生まれては消えていきました。高校1年生の夏にはカプコンから「ヴァンパイア」、SNKから「THE KING OF FIGHTERS 94」の稼働開始で世は格闘ゲームブームの真っただ中!という印象でしたね。また前年末にはセガから「バーチャファイター」が稼働してましたが、94年にはナムコから「鉄拳」も稼働開始となっており、3Dでも格ゲーブームに火が付き始めていたころです。  あの頃に出た格ゲー、いろんなタイトルあったなあ。登場キャラ全員濃い「ファイターズヒストリー」、大味で面白い「ワールドヒーローズ」、なんでグローブにブーメラン?の「風雲黙示録」シリーズ、全員おかしい「ブレイカーズ」、気持ちいいぐらい振り切ってる「大江戸ファイト」などなど。僕はブレイカーズでピエール使ってました。  達名ではそのころからカプコンの「ヴァンパイア」シリーズと「X-MEN」以降のマーヴルシリーズはもちろん、SNKのKOFシリーズや「サムライスピリッツ」シリーズ等もちゃんと時世に併せて取り揃えており、常に対戦台が大賑わいでした(以前書いたとおり対戦台が1階と2階に分割されているためケンカになりにくいという特性もありました)  あと、来兎さんの策謀によりカプコンの「シークレットファイル」も購入できる数少ない店舗にもなってました。シークレットファイルは当時のカプコンが各ゲームごとに発行していた小冊子で、ゲーム雑誌にも載らない公式のイラスト等が山盛りだったので、特にストリートファイターシリーズや「クイズなないろDREAMS 虹色町の奇跡」はみんなゲットしてましたねー。  沖縄市内は相変わらずコザ十字路と胡屋十字路近辺にゲーセンが集中してましたが、胡屋はタイトー直営とセガ直営があったので大型筐体もそれなりに遊べる環境がありました。  コザ十字路では達名と、路地裏側にあった「サファリ」、大通り側に「チャンプ」の3店舗が比較的ににぎわっており、96年くらいに「バトルテックビート」ができたのかな。そこから胡屋方向に行くと現在はユニオンスカラコザボー店になっている「コザボウリングセンター」がありました。いわゆるボウリング場ゲーセンですね。  胡屋十字路は先ほどの直営店のほか老舗の「ヤングパレス」...

僕のオタク・サブカル思い出(25)

  高校生になるとこれまでの小・中の校区からさらに広がっていくので、今まで交流のなかった地域の生徒と一緒に通学するようになるんですが、僕の場合は学校よりも通ってたゲーセン「達人と名人」を通してできた同級生の友達もたくさんいました。基本的にはクラスメイトのY君つながりで、次第に僕の交友関係は中学からの持ち上がりから達名で出来た友達の方に軸足が移っていきます。  そんな中、メンバーのうちの一人が「TRPGをみんなでやってみよう」と提案してきました。  TRPGとは「テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム」の略称で、我々世代にとってRPGといえばドラゴンクエストやファイナルファンタジーが代表格のコンピューターRPGでしたが、TRPGはそれを紙とペンとダイスで遊ぶクラシカルなスタイルのRPGです。  TRPGの代表格といえば近年映画にもなった金字塔「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ(D&D)」ですけど、D&Dは歴史が長く様々なシナリオがすでにたくさんあるものの、正直殆ど前提知識もない高校生の僕たちにはハードルが高いんで、日本における代表的なルールブック「ソード・ワールド」の方を選択しました。こっちはD&Dに比べると簡素なルールですが、工夫すれば本当に白紙とペンと6面ダイスだけでなんとかなっちゃうので初心者にもとっつきやすいんですよね。   TRPGのプレイの流れは「キャラメイク(パラメータをダイスを振って決め、それを元に自分のキャラの設定を決める)」→「進行を務めるゲームマスター(GM)の口頭の指示に従い、キャラになりきって仲間と相談しながら会話でゲームを進める」という感じ。  シナリオは市販のものもありますが、GMが事前に作成することも多く、同人誌でシナリオを発行しているサークルもたくさんありますね。そしてゲームの進行はすべて口頭で行うため、システムの上で決められた行動しかできないコンピューターRPGでは考えられない予測不能の行動をプレイヤーがやってくることもよくあるので、実際のゲームの面白さはそのGMの会話コントロールの腕にかかっているとも言えます。  その時点でも、有名な日本のファンタジー系小説「ロードス島戦記」の大元がこのソードワールドのリプレイ(プレイ後にその時の会話等をまとめて読めるようにしたもの)という話も知っていたので、特に下調べもせずノリで日取...

僕のオタク・サブカル思い出(24)

 大都市圏以外のオタクはどこの地域も情報格差や物資の少なさで辛い思いをしていた、というのは沖縄に限らずどこの地方でもあるあるらしいんですが、逆に沖縄だったから(しかも中部だから)こそ恵まれていたかもしれないという話も一応あります。   高校3年生の頃あたりに定期的に遊びにくるようになったIさんという4つ上のお兄さんが、達名にあるカードを持ち込んできました。それが「マジック:ザ・ギャザリング」(以降「MtG」)でした。MtGはトレーディングカードゲームの有名シリーズの一つで、日本では「遊☆戯☆王」の「マジック&ウィザーズ」の元ネタになってたり、当初コロコロ「デュエルマスターズ」で扱われていたカードゲームとしても有名ですね。  あの当時はホビージャパンによる日本語版が出たくらいの時期でしたが、実際のところ僕たちは日本語版の方を手に入れるのが難しく、胡屋十字路から嘉手納基地向けのゲート2向けに行ったところに「Silver Bullet」というアメリカ人向けに海外のボードゲームとTCGを扱うお店があったので、そこに行って原語版を買うのが基本でした。  Iさんは高校生の時に海外留学を経験しており英語が堪能だったんで、セットに入ってるルールブックを翻訳してもらい、みんなで遊び方を確認しつつプレイしてました。こんな事例で言うのもアレなんですけど、沖縄に住んでて英語を知ってると他地域よりも生活に密着した便利さを発揮するんですよねえ。  (むっちゃどうでもいい話なんですが、クラスメイトのY君がその店の店主宅に遊びに行ったことがあるらしく、後日その件について「あの人めちゃくちゃ 人間椅子 が好きらしくて、家に居る間延々と流しててすごかったぜ」とのことでした)  店内はテーブルとかは特になく、6畳くらいのスペースで四方が商品棚に囲われた狭いお店だったんですが、そこにぎっちりと海外のボードゲームが積まれており、その一角でTCGを取り扱ってました。あとパック買ったときに不要とされたコモンカードが山積みになってて1枚10円とかで買えたんで、たまに漁ってはUnkle Istvanのバージョン違いを探したりしてましたねー。  そもそも僕は格闘ゲームもそうなんだけどこういうデッキ組んでどうこうみたいなのもまあ弱いんで、Colossus of Sardiaをメインに飛行を付与して敵を踏...

僕のオタク・サブカル思い出(23)

  僕が中学から高校生の頃に聴いてた音楽とかの話から先に。  MCハマーの大ブーム、そしてC+C music factoryの「Gonna make you sweat」(日本では「エブリバディ・ダンス・ナウ!」として有名)、あとはJames Brown is deadからのHolynoise→ロッテルダムテクノ、当時イタロ・ハウスの代名詞という感じで有名になってたBlack Boxなどなど、今の僕の基礎は大体1990年前後に固まってます。  中学に入ってテクノというキーワードに出会ったあの時期は、ソニーがイギリスのテクノレーベルR&S RECORDSのCDを大量に国内版としてリリースしたり、電気グルーヴがラジオ内で曲の紹介をするほか「電気グルーヴのテクノ専門学校」というコンピレーションアルバムで海外の様々なスタイルのテクノを積極的に日本へ紹介していましたね。  その一方で、現在では超大手レコード会社に成長したavexが89年あたりから海外のダンスミュージックを大量に日本へ持ち込み、ユーロビートやジュリアナ系などディスコのほうのダンスミュージックを展開していた時期でもありました。  高校に入学してすぐのTMNのプロジェクト終了宣言後、僕はどんどんテクノへと傾倒していきました。元々大好きだったB'zなんですが、アルバム「the Loose」を経て「SURVIVE」をリリースした頃に「B'zはいついかなる時でもカッコいいことは間違いない。ということはしばらく追っかけて聴かなくても大丈夫!」という今思えばよくわからん理論で、以降「ACTION」のツアーに行くまでの10年ほどはB'zのCDを買わなくなります。  僕がテクノのCDを買う場所は主に2つ、当時胡屋十字路のタイトーパセオの隣にあった「照屋レコード店」と、那覇市国際通りにあった「高良レコード店」です。そしてテクノ大好きな僕にとって都合がいいことに、どちらもアメリカ直輸入のCDが結構な量あって、特にケンイシイの「EXTRA」あたりの一連のシングルシリーズは日本盤と本国盤を選ぶことができるという大変ありがたい環境にありました。  中央パークアベニューからすこし外れたところにあった中古レコード屋さんでは、おそらく嘉手納基地経由で沖縄に持ち込まれたであろう海外盤も沢山あったんですが、当時めちゃ...

僕のオタク・サブカル思い出(22)

  僕が中学2年生の頃くらいから、ゲーム業界には「3Dグラフィック」という新しい波が押し寄せていました。1992年セガからリリースされた「バーチャレーシング」と、翌年登場した「バーチャファイター」によって、ゲーマーたちはゲームグラフィックの新時代がそこまで来ていることを実感していたのでした。  特にバーチャファイター2は圧倒的なグラフィックの進化を見せ、そのプレイヤーたちの対戦の様子がテレビ等で紹介されるなど、ゲーマーだけでなくサブカル層にもファンを増やしていきます。  その流れの中で、家庭用ゲーム機では任天堂のスーパーファミコン・セガのメガドライブ・NECのPCエンジンの3勢力世代だった時代を終わらせる次世代機「プレイステーション」(以降PS)「セガサターン」(以降SS)が1994年末に登場します。PSは当初「これまでゲームに触れたことのなかったライト層へのアプローチ」を展開し、逆にSSはゲーマー向けのソフトを大量に投下したことで住み分けが出来、1年半も後発になってしまった任天堂のNINTENDO64は最終的に売り上げで大きく差をつけられることになります(ただ、任天堂は同年発売したポケモンによって携帯ゲーム機の方でさらに一段階躍進します)  そんな話はさておき、僕が中学生から高校生の間に(個人的には)ゲーム音楽業界でとんでもない革新的な作品が生まれています。  まず、1992年に稼働開始したアーケードの縦STG「F/A」。いわゆるジュリアナ系の中でもかなりハードなタイプの音楽が採用され、しかもそのクオリティも一級品。アーケードアーカイブスで遊べるから全国民買え。  その翌年はナムコのレースゲームの金字塔「リッジレーサー」が稼働開始します。F/Aの路線を継承するダンスミュージックは、この時点ですでに完成されたものになっていました。中でも「ROTTERDAM NATION」は、前年にベルギーで生まれたロッテルダムテクノというスタイルを日本の持ち込んだ非常に早い例として語り継がれています。アーケードアーカイブスで遊べる(以下略)  以降「2」「レイヴレーサー」と続くリッジシリーズの超高クオリティのダンスミュージック、他方ではレイフォースの流れを組むテクノを基調としたゲームミュージック(サイヴァリアやライデンファイターズ等)など、テクノ好きにとってはここから200...

僕のオタク・サブカル思い出(21)

  高校生になってからもパソコン通信上でゲーセンとは別のコミュニティに出入りしていました。Sさんのホストから同じく沖縄県内の若い人があつまるBBSに移行し、比較的近所に住んでいたNさんという5つ上くらいのお兄さんとつるむことも多くなってきました。  あまりにもライフステージに関係した話が多くなってくるので省略していくんですが、やれ「好きな子がいる」とか「こういうことで悩んでる」みたいなことはどっちかというと面と向かってない分ネットのほうが話しやすく、一応高校生らしい青春も多少はあったんですが当時としてはかなり特殊だったかもしれません。  また、当時のホストのみんなでペンションを借りて泊まり込みで遊びに行くとか、みんなで海に遊びにいく、みたいなことも何度かありました。当然のように僕が一番年齢が下だし運転免許も持ってなかったんで、家が近い人のお力を借りつつ参加させてもらってました。ほんとみんな優しかったな。  そういえばこの頃、初めて地元のBBSに接続したときに聞いていた「同い年の子」と会う機会がありました。同い年の視点でもめちゃくちゃ聡明で理路整然と話すタイプの、なんなら先輩なんじゃないかってくらい大人な感じの男の子でした。彼もその日以降交流を持ったことないけど、今何をされているんだろう。  高校2年生くらいになると、地元のホストと並行して全国区の音楽系草の根BBSにアクセスするようになります。久しぶりに過去公開していた曲データの中のドキュメントを読み直して思い出しましたが「 ゆいNET 」というところでした。Wikipediaに載ってんの凄い!  当時はPCで聴く音楽といえば「同じ機種シリーズで制作した内蔵音源で再生できるデータ」「同じモジュールを持ってる人が作ったMIDI演奏データ」のどっちかで、そのころは圧縮波形ファイルなんていうものはほとんど流通していませんでした(なにしろ保存できるのが1.44MBのフロッピーディスクか、100MB以上だとかなり高価になるHDDしかない時代だった) また当時のMIDI音源用の演奏データで人気があったのはポップスのコピー(当然ボーカルは入れられないのでカラオケ音源みたいなの)で、音源を持ってる人はたくさんのホストを渡り歩いてデータを収集してたんですね。  僕もその流れで色々なホストを経由してゆいNETにたどり着いたんです...

僕のオタク・サブカル思い出(20)

  コナミからリリースされた「ときめきメモリアル」は、1994年にPCエンジンで発売しマニアからの人気を獲得、翌年の1995年10月のプレイステーション(以降PS)版が話題となり以降シリーズ化していく人気タイトルです。  94年の夏頃にPSを手に入れたものの、ゲーセンで格ゲーのほうが魅力的だったのであまり稼働させていなかった時期だったんですが、いろんな人からおすすめされてお借りしてプレイしたら、まずゲームとして面白かったうえ思春期だったこともあり完全にどハマりしてしまいました。ちなみに当時の僕の推しは紐緒結奈でした。  ときメモ、まず育成ゲームとして完成された内容でしたよね。細かいゲームの面白さは専門の記事にお任せするとして、仲良くしたい女の子とだけ関係を築きたいのに一方的に好感を持たれては爆弾が爆発して・・・みたいなのを経てどうやってパラメータを調整するかとか、そのあたりのバランスがとても良かった。  で、僕はアニメ全然見てなかったのと、いわゆる恋愛モノは「自分がそういう市場では見向きもされない」と最初からあきらめてたんで、マンガのキャラの誰が好き~とかいうのも感覚が薄めだったんですが、そういうのもときメモで完全に開いてしまいました。いかにもアニメ声っていう高い声の人が少なめだったのも良かったです(今でも結構苦手なので) それとシナリオがラブコメ色が強かったのも抵抗感が薄くなったのが良かったなと。  一緒に同人誌を作ってたY君も当然ハマっていたんで、二人で「じゃあ今度はときメモやるか!」というノリになり、僕はいつも以上に気合をいれて漫画を描こう!と数ページ描いてみるんですが、まあ多少は成長してるけど絵が相変わらずひどい。これだと読む側がキツイよなあと思案しているとことで、あることを思い出しました。  さかのぼること中学2年生のあたり。僕に電気グルーヴを進めてくれたC君も、ローカル深夜ラジオ「ラジオジャック」のリスナーでした。ですが彼は同い年にしてはやたらと番組の内容に詳しく、さらに幅広い深夜ラジオの話もいろいろ聞かせてくれるのです。C君すげーなと思ってたある日、何気なくC君から「うちの兄貴、ラジオネームがFK(有名漫画のキャラから取ってるラジオネームで混同しそうなのでイニシャル表記)なんだよね」という話を聞かされてびっくり。その人、番組内でも結構有名なリス...

僕のオタク・サブカル思い出(19)

  達名に通い始めてひと月ほどした1994年10月、Y君から「俺たちも同人誌作ってみない?」と打診されます。NEXTの活動を見て自分もやってみたい!と思うのは自然なことですよね。僕もその頃は同人誌を作るのにすごく興味があったので、二つ返事でOKしました。  沖縄の同人界隈に住まうオタクの多くは、同人誌即売会の事を「イベント」と呼んでいました。それと、この20年ちょっとくらいは沖縄で開催される同人誌即売会といえばスタジオYOUの主催する「おでかけライブ」の事を指すのが一般的ですね  僕が高校生、つまり90年代中頃の同人誌即売会は個人主催の小さなイベントとして開催されることが多く、その告知手段も「新聞の地元イベント告知欄」とか、それぞれの即売会の中で撒かれるペーパーで情報を得るのが普通でした。小学生の時にラジオジャックでVAIO主催の即売会の告知をやってたような気がするんだけど、どうでしたっけ。有識者からの情報求。  個人主催の即売会はどうしても規模をそれほど大きくすることができないため、大体は地元の公民館とかで開催してました。ということで、Y君から「10月末に〇〇〇公民館でやるらしいんだけど、まずは見に行ってみない?」とのお誘い。ということで僕もついに即売会デビューです。  日曜日、会場となった公民館には思ってたより多くの人が詰めかけており、「地元のイベントでもこんなに人来るんだ!すげえ!」と感動したのを覚えてます。それともうひとつ印象的だったのは「女の人多いな!」でした。  そもそもオタク趣味を通して人と関わることが殆ど無かった少年にとって、オタク趣味ってなんとなく男ばっかりのむさ苦しいところだろうと無意識に思い込んでいたんですが、参加者とサークル合わせても会場の8割くらいが女性なのはびっくりしました。後にわかるんですけど実は古来から女性がすごく多いんですよね。「沖縄オタククロニクル」でも言及されていましたが、今も同人界隈でも女性のパワーが圧倒的に強いですね。  ただ、サークル参加されている人の半分くらいが便箋とかペーパーとかばっかりで、本がちゃんとおかれてるサークルが思ったほど居なかったのが現実というか、まあでも漫画一本描き切るって結構大変だもんね・・・。それに基本的には女性が女性向けに作ってるものが多いわけで、賑わってて雰囲気は楽しいんだけど意外に手に取...

僕のオタク・サブカル思い出(18)

  高校1年の2学期が始まったあたりから、僕は学校近くのゲーセン「達人と名人」(達名)に足繁く通うようになります。1ゲーム20円の台(2階トイレ横に1943改があって、駄菓子コーナーで30円のビスコを買ってから遊ぶのに丁度いい)もあるし、コミュニケーションノートもあるので、これまで通ったゲーセンとは段違いの居心地の良さでした。  ある日、駄菓子コーナーの上に置いてあったラジカセのところに人が集まってるので覗いてみると、「Xの紅っぽいアレンジのラジオ体操」を作って来た!という、スト2ターボのTシャツを着た眼鏡のお兄さんが居ました。その人は後に「MELTY BLOOD」「UNDER NIGHT IN-BIRTH」の音楽を手掛けることになる 来兎さん です。  僕も音源は持ってたんで「これどーやって作ったんですか?」と尋ねると「レコンポーザってソフトがあって、それを使ってる」とのこと。レコンポーザといえば、TM Network時代にも小室哲哉が使用していたというシーケンサーです。この話をきっかけに曲の作り方などを色々情報交換できるようになり、以降の僕は来兎さんの指導のもと(ってほど細かく教えてもらったわけではないけど)レコンポーザで曲を作るようになりました。オリジナルで曲を作れるようになったのは多分半年後くらいじゃないかなあ。この出会いが無ければ僕は曲も作ってないしDJもやってないんですよね、そういう意味で間違いなく大恩人なのです。  あの時はすでに同人サークル「NEXT」を結成しており、主に同級生数人を中心メンバーとして同人誌を制作していました。このへんはうろ覚えなんですが、出会った頃くらいにマエカワさんがNEXTに合流していて、マエカワさんのマンガを中心に同人誌を作ってたんじゃなかったかな。  当時から来兎さんとマエカワの「面白いものを作ろう」という熱意は高く、当時の男性中心のメンバーによる同人サークルとしては珍しく定期的に同人誌を発行していて、そのクオリティも他サークルとは一段階上という印象でした。  ご本人たちもいろんなところでお話されてることではあるのと、僕はメンバーではなくたまたま横で目の当たりにしていたという立場なんですが、以降も僕の思い出せる範囲で当時の様子を書いてみます。  ここからは余談。その時の達名の常連の中に居たMさんから「君、もしかして〇...

僕のオタク・サブカル思い出(17)

  高校に入って初めて出来た、別の中学から来た男子のY君の紹介で、学校から歩いて5分ほどのところにある小さいゲーセンに連れていかれました。そのゲーセンは「達人と名人」という不思議な名前で、明らかに2階建の民家を改造した店舗でした。  出入口横には壁を無理やり取り払って設置されたUFOキャッチャーがあり、扉を開くと狭ーいスペースの左側に6台のアップライト筐体、右手にテーブル筐体が2台。奥に2階への階段があり、その下のスペースが店員用の部屋と駄菓子の陳列棚。  なんかとんでもない手作り感のある店だなあと思いながらアップライト筐体に目をやると、スト2ターボで小学生が対戦をやっていて・・・あれ、でもこの筐体の向こう側って階段と店員用スペースしかないし、かといって一台で2人を操作している風でもないな、これ誰と対戦してるんだろ?  「ああこれ、実は2階にある台と繋がってて、1階と2階で対戦できるようになってんのよ。だから相手は今2階に居るよ。」  Y君の説明を聞いてもいまいちピンと来なくて、半信半疑でめちゃくちゃ急で狭い階段を上っていくと・・・ホントに2P側の筐体が2階にあった!マジかよ!この1階と2階を繋いだ対戦台、この店以外ではさすがに見たことない珍しすぎるセッティングでした。2階は1階とリンクした対戦台が2台と、もう2台がその時はたしかエイリアンVSプレデターの4人同時プレイできる台、そして別の壁側にはこの狭いスペースにどうやって運び込んだのか想像もつかないセガのメガロ50。何ここ。カオスすぎる。  カルチャーショックにクラクラしながら階段を下りてしばらく店内を眺めていると、Y君が「これこれ」とノートを差し出してくれました。オタクがあつまるゲーセンにはつきものの「コミュニケーションノート」ですね。そこには常連が絵やメッセージなどを気軽に書き込んでいる様子があり、特に荒れるでもなく和やかに交流しているのが見て取れました。  こぢんまりとしていて居心地は良いんだけど、常連の結束が固そうでコミュニティに入るのが容易ではなさそうな雰囲気を察知し、また気が向いたら来るわーとY君に挨拶してその日は帰宅。しかし変なゲーセンだったな・・・。  で、高校1年の夏休み。僕は達人と名人ではなく、胡屋十字路にあったタイトーパセオに通い詰めます。理由は「レイフォース」。レイフォースはタイト...

僕のオタク・サブカル思い出(16)

  中学3年で吹奏楽部に所属し、生徒会役員を押し付けられ、なんか断れない空気を作られて校内合唱コンクールで独唱し、ギリギリ席次30位前後をキープしつつも低空飛行の学力の低さをカバーするべくヤンチャな奴がひしめく学習塾に押し込められ、その秋頃に導入された高校推薦入学制度に申し込んで「まあそれなりの実績はあるからなんとかなるだろう」と臨んだ面接で高校の先生から質問もそこそこに「うんまあ君の成績なら一般入試でも行けるよ。じゃあこれで終わりね。」とあっけなく落とされ(代わりに運動部を強化したかった高校側の意向により僕より成績が結構下だった運動部員が15人くらい合格してた)、大人への不信感という中学生らしい感情が芽生えつつ、なんとか高校受験を突破。なんか中2の冬から異様にスケジュール詰まってて長かったな・・・。  高校入学のお祝い金をいろんな人から頂いたので、僕は一念発起して「作曲のためにMIDI音源を買おう!」と父の知り合いのカメラ屋さんに注文しました(思えばあそこで注文した最後の商品だったな)  僕が欲しかったのはモジュールタイプという鍵盤のない音源のみの箱型のものでした。僕が当時買ったのはSC-55mk2というローランドの音源とソフトが同梱された「ミュー次郎55」で、届いてからしばらくは付属のソフトを使って曲を作ろうと奮闘してみたんですが、そのソフトが「楽譜をそのまま打ち込みできる」という触れ込みではあったものの非常に使いにくく、結局僕はそこから1年くらい寝かせてしまうことになりました。  僕が通ってた高校は市内ではミドルクラスの学力で、ひと学年12クラスとかあるすんごい大きい高校でした(交流はなかったけど定時制もあった) 学食がおいしいことでも有名で、実際お昼時間になると弁当屋さんが中庭にひしめき合っていたうえ、正門向かいに安い弁当を扱う小さいスーパー、裏門を出てすぐのところにもお弁当屋さんがあるという、食生活に関しては沖縄最強と言っていい高校でした(この話は本編と関係ないです。自慢したかっただけです。)  高校から自宅までの道すがらにブックボックスという書店+レンタルビデオ・CDショップのチェーン店がありました。そこ、何故かTM Networkの「DIVE INTO YOUR BODY」の非売品シングル(DJ用にトラックの前後が長くなってるやつ)がレンタルに...

僕のオタク・サブカル思い出(中学の頃の思い出補足編)

あのSFやガジェット、ゲームに何年生で出会ったかがわかるインタラクティブ年表「SF・コンピューター技術ライフライン」を3倍に育てた。自分語りに便利なX共有機能も(CloseBox) | テクノエッジ TechnoEdge https://www.techno-edge.net/article/2026/08/05/5365.html  ・・・という記事がありまして。滅茶苦茶便利で色々思い出すのに本当に助かります。  さかのぼってみると結構抜けてるというか、単にメモとして書いときたいなっていう話をここで思いっきり書き散らしていきます。完全に趣味の話です。  中学生の頃、那覇にベスト電器系列のパソコン専門ショップ「コンピュータウン」がありました(後に沖縄市にもやってくる) 当時はソフトベンダー武尊が僕のパソコンライフを支えてくれたんですが、コンピュータウンは毎回行くたびにPC98以外のPCが沢山見られるのが楽しくて、売り場で買いもしないパソコンに貼りついたりしてましたね。  当時くらいから徐々に、これからはパソコンも扱えるようにならなきゃね的な雑な感じで中学校の授業でもパソコンを使う時間がありました。うちの中学にあったのはFM TOWNS(以下タウンズ) タウンズは富士通から発売されたCD-ROMドライブ標準搭載のパソコンで、当時としては破格の大容量のCD-ROMを利用したマルチメディアソフトが多数発売されてました(思えばマルチメディアっていう言葉が使われだしたのもこのあたりじゃないかな)  当時コンピュータウンにはパソコン通信で出会ったお兄ちゃん達に連れてってもらったりしてました。店頭では大体なんかしらデモでゲームの映像が流れていたので、学校じゃ絶対見ることのできない本気のタウンズの姿を見て興奮したり、マルチメディアソフト特化型の小型版タウンズ「FM TOWNS マーティー」の実機が展示されてるのを眺めたりしてました。  そういえば中3くらいに初めてWindows3.1を触った記憶があります。でもあのときはタスクバーが無くて、デスクトップにゴミ箱といくつかのアイコンしかなく、しかもそのアイコンをうっかり画面端に持っていくと再び画面内に戻すのが今以上にめんどくさい(本当にどこにいったか分からなくなる)みたいな感じで、MS-DOSのランチャーしか使ったことない僕にはさすが...

僕のオタク・サブカル思い出(15)

 中学生の後半あたりから「ストリートファイター2」の爆発的ヒットを景気に、ゲームセンターでの格闘ゲームブームがやってきます。中学を卒業する1994年くらいには沖縄市内にもかなりの数のゲーセンがにょきっと生えてきました。大小さまざまなゲーセンがあったことは確認してるんですが、当時の僕は学校内でじんわり浸透していた「ゲーセンに行ったらチクられる」という空気に気圧されて、地元のゲーセンにはあんまり立ち寄れていない時期でもありました(実際、以前の回で書いたポンキッキ等も店内にいるのを見られただけで「先生に報告するぞ」と同級生から軽い脅しをかけられ「店内で見たならお前も同罪だろ」と返したり)  小学生の頃の時に書いてなかったんですが、僕は10歳だか11歳だかの頃に父に強制されてアマチュア無線の免許を取得しています。なんでも父の知り合いに「小学生で免許取った子がいて、それが沖縄では最年少だって話だから、お前にも取れるだろう」とかいうよくわからん理由でした。結構苦労して取ったけど3年くらいで使わなくなっちゃったなあ。  ただ、基本的には車に搭載された無線機と自宅の無線機で「〇〇時に帰ります」みたいな報告に使ってたくらいなんですが、もうひとつの活用法として「遠出したときに個人行動が出来るように携帯無線機をもって歩く」てのをやってて、今でいうスマホの扱いで連絡とれるようにしていたんで那覇遠征の時は結構のびのびとゲーセンで遊んだりできていたのでした。この点だけは本当に助かりました。  で、那覇市国際通り、那覇タワーに併設の立体駐車場を改装してできた「ファッションシティーMAXY」の地下階にセガの直営店があって、たしか1991年くらいの時点では伝説の大型筐体「SEGA R360」が稼働してました。SEGA R360はその名の通り360度(実際には縦横回転なので720? 1080?)回転するジェットコースターもかくやのびっくり大型筐体です。あんまりにもでかい上に特殊な筐体なので、稼働開始から半年くらいは「店員に500円渡す→店員がプレイヤーのシートベルト等装着を確認し、ポケットの中身を預かる(逆さになるので小銭や鍵が落ちる事例が多かった)→プレイ開始とともに店員が実況を始める」というのが通例だったと記憶してます。後に北谷町美浜の58号線沿い(今のくら寿司のところ)にあったテクモピアに移設さ...

僕のオタク・サブカル思い出(14)

  中学の頃まで、僕は物欲はあるけど自我はあんまりない、流されまくるタイプでした。幸い身体がデカかった(身長は低いが胸板が厚いので筋肉質っぽく見える)影響でヤンチャなのに絡まれることは少なかったものの、学校では地味かつ真面目っぽく過ごすだけの日々。  部活は、兄が所属していた影響で一応サッカー部に籍を置いたものの全くついていけず、1年生の後半からは幽霊部員状態。勉強は一学年300人くらいの中で30位~50位くらいに留まれる程度にはやってたんですが明らかに数学と歴史がダメでパッとせず。普段はクラス内で中学の時から仲の良かったやつとゲームの話とか音楽の話なんかをしてやり過ごしてました。  2年生の2学期末頃、同級生の男子2人から声をかけられ「これ吹いてみて」と、唐突に金属で出来た謎の物体を渡されました。 「これ、マウスピースっつってトランペットとかを吹くときに使う道具なんだけどさ、これを口に当ててブーッって唇震わせて音出るかどうか、やってみてよ。」  よくわからないまま吹いてみると、低い音でブブーっと音が出ました。それを見た2人が僕の腕をつかんでニヤリと笑い「よし、今日から吹奏楽部だ!」などと言って僕の意見も聞かずにそのまま音楽室に連行されます。  先ほど吹かされたのは金管楽器でも低音部を支えるチューバ用のマウスピースだったんですが、先輩が受験のため部を卒業したことでパートに穴が開いてしまい、暇そうでかつ大きい楽器を支えられそうなガタイのいい男を探していたのです。完全に不意打ちで音楽室に連れてこられたものの、二人から事情を聞いて頼み込まれたことと「お前サッカー部全然行ってないんだろ、でも部活やってた方が受験に有利じゃん?」という説得に負け、その日から吹奏楽部に所属することになりました。  さて、吹奏楽部ということは楽器演奏するってことなんだけど、いや僕全然楽譜とか読めないんだけど・・・と不安を漏らすと「いや大丈夫、やってりゃなんとかなるから!」と先ほどの2人は細かいところは完全に丸投げ。そして低音部のパートは当然面識もないチューバ担当の同級生女子とコントラバスの下級生女子の2人。全く楽器演奏の経験がないのに部活に最初から後輩が居るという特殊環境もあり、どちらも結構親切に教えてはくれたけど、そもそも基礎から全く解ってなかったので「こりゃこのままだとみんなに迷惑かけ...

僕のオタク・サブカル思い出(13)

  僕が小学校高学年くらいから中学校時代にかけて、家庭用ゲーム機はもちろんですがゲーセン自体にも様々な環境の変化が訪れます。  1988年のアーケード版テトリスの大ヒット、そして1991年の「ストリートファイター2」の爆発的ヒットとUFOキャッチャーによるプライズゲームの盛り上がり、さらに1992年アーケード版「ぷよぷよ」のヒット等を経て、1995年の「プリント倶楽部」稼働開始によって段階的にゲーセンが「明るい場所」へと変貌していきます。  僕たち世代にとっては「ストリートファイター2」の登場でゲーセンでの遊び方は一変しました。今までみんなで「如何に長く遊んでクリアまたはハイスコアを取るか」というのが基本だったのが、プレイヤー同士で対戦することの面白さを与えられてしまったからさあ大変。噂にも聞くとおりインカムが徐々に増えていき、ゲーセン自体がどんどん活性化していきます。類似ゲームも大量にリリースされる中、やはりカプコンとSNKの2大巨頭が対戦台を占拠していました。  僕が初めてスト2をプレイしたのは沖縄市胡屋にあったハイテクセガの2階。スト2稼働当初は向かい合わせの対戦台はまだ無く、大体はコンパネの左右で並んでということになるんで、友達同士で仲良く(?)キャラを譲り合ってバトルしてました。あのときのハイテクセガは1階にラッドモビールがあって、2階の階段上がって左側にスト2とぷよぷとが配置されてたのと、真ん中の島にテーブル筐体の「アラビアンファイト」や「チャタンヤラクーシャンク」(漢字で書くと「北谷屋良公相君」でおなじみ)、反対側の壁に「琉球」「宇宙戦艦ゴモラ」「ピストル大名の冒険」があったような・・・。  対戦が本格化してきたのはスト2ダッシュくらいからだと記憶してるんですが、ゲームそのものの面白さもさることながら、火付け役としてアーケードゲーム専門誌「ゲーメスト」と、本来はプログラムを掲載するはずの雑誌なのに何故かゲーム記事が熱すぎる「マイコンBASICマガジン(ベーマガ)」の2誌があったのではないかと思います。どちらも全国の提携ゲーセンから集計するハイスコア記事があることでも有名でしたが、格ゲーにおいては前者は各キャラの攻略法や戦い方の基本などを解説する記事が多く、後者は対戦の熱さを伝える企画「バトル・オブ・スト2」が人気でしたね。  以降、SNKが「餓...

僕のオタク・サブカル思い出(12)

 「凄いゲームを連れて帰ろう。」ってキャッチフレーズ、覚えてる人どのくらい居ますかね。1990年に登場した「NEO GEO」はゲーセン用のMVSとアーケードゲームがそのまま遊べる家庭用ゲーム機風コンソールの2種があり、当時はショップで2泊3日ソフト1本で大体2000円くらいでレンタルできたのでした。沖縄市ではコザ十字路にあった「ロム」というショップでレンタルしてました。)  僕も一度だけレンタルしたことがあって、そのときにメモリーカードも1枚購入して「マジシャンロード」をやってた記憶があります。うちの道向かいに当時あったスーパーの入口横にMVSが稼働してて、その筐体はメモリーカード挿せる筐体だったのでたまに遊んでたなーという記憶です。あ、ここからの話とはちょっとしか関係ない前段でした。   怒涛のパソコン通信デビューを果たしてひと月くらいしたころ、掲示板でたまーに見かけるSさんというユーザーから「多分近所に住んでるんだけど、君の通ってる学校の近くでバイトしてるから今度遊びにきてよ」というような内容のメッセージが届きました。  指定のあったバイト先というのが、たしかに僕が通ってる中学校の道向かいに最近出来た中古ゲームショップでした。こないだ(前回の管理者セットアップ来客)の件もあったんでちょっと警戒しつつ、後日その店に行ってカウンターの若い店員さんに意を決して話しかけてみると「あー君が〇〇君(当時のハンドルネーム)か!ほんとに中学生なんだ!」と気さくに接してくれました。  このSさんも如何にも若者然とした細っこい当時20歳くらいで、あのBBSで周りが30代くらいのかなり年上の人しかいない所だから同世代いなくて居づらいんじゃないかなーと声をかけてくれたということでした。そして「今度来てよ」とSさんが運営しているBBSの番号をもらいました。  その日の夜、貰った番号にアクセスしてBBSにログインすると、沖縄在住の20代前後の若いオタクたちが活発にコミュニケーションをするコミュニティが形成されていました。そして「紹介されて来ました」と書き込みすると、もちろんそこでも最年少だったということもあって、常連の皆さんが温かく迎え入れてくれました。心配されていた通り、たしかに今まで接続してたBBSは野球の話とか仕事の話で全然ついていけてなかったんで、やっと等身大で話ができる場...

僕のオタク・サブカル思い出(11)

 中学2年の3学期修了式を迎えるあたりで、父が東京出張でのお土産でモデムを買ってきてくれました。モデムとは電話などのアナログとPCで扱うデジタル信号を相互に変換する機械なんですが、これで何をするのかというと「パソコン通信」です。  今あなたがこれを読んでいるインターネットは「個人の端末からプロバイダ(ISP)に接続し、プロバイダ経由でインターネットを形成するワールドワイドウェブ(WWW)に接続している」ってことなんですけど、WWWは世界各地にあるサーバー等が常時ネットワークに接続しているので基本的にいつでもどこからでもアクセスできる状態なのに対し、パソコン通信はざっくり言うと「特定のホスト(今でいうサーバー的なもの)に直接電話をかけて接続している」というイメージですね。  僕が始めた当時はホスト同士の相互接続というものはなくて、各ホストに自分でダイヤルする必要があったのと、NiftyServeのように企業体が運営する大手のホスト以外に、個人がホストを立てて公開している「草の根BBS」(当時は電子掲示板がメインだったためBBSと呼称されていた)が無数にあって、利用者の多くはそっちを使うことが多かったように思います。  モデムをRS-232Cケーブルで繋ぎ、接続用のソフト「まいと~く」にホストの電話番号をセットしアクセス開始、モデムがホストに電話をかけて向こうから「ビィーギョギョギョギョー」みたいな音で返ってきたら接続成功、みたいな感じです。僕らくらいのおじさんだとFAX送るときのアレと大体同じですね(これも下手するとこれ書いてる時点での20代は知らない可能性大なんだよなあ) で、大手ホストは何回線もあるので意識することは少ないんですが、草の根BBSは個人運営なんで「自宅の電話回線を22:00~翌朝8:00まで解放してホストを立てている」ってのが普通で、なので誰かが接続しっぱなしだと他の人は通話中でログインできない!なんていうトラブルもよくある話でしたねえ。  で、ホストと接続している間は電話をつなぎっぱなしにしている状態なんで、今のSNS使ってるノリでつなぎっぱなしにしていると後日とんでもない金額の電話料金が請求される!というのがまあ当時のあるあるでしたね。テレホマンって知ってます?  たしか当時のまいと~くには電話帳的に、当時の各地域の主要な草の根BBSも登録されて...

僕のオタク・サブカル思い出(10)

  多感だとされる中学生の時期、僕は後の自分に大きな影響を与えたものに出会いました。それは、次兄が嘉手納基地で当時開催されていたフリーマーケットで買ってきた、その頃アメリカで流行ってる曲を集めたカセットテープから流れてきた「James Brown is Dead」(L.A.Style)です。  べろんべろんの酔っ払いが路地裏で「ジェームス・ブラウンは死んだ!」と喚いていた事にインスピレーションを受けて作られたとされる、当時的な表現で言うところのハードコアテクノまたはデステクノと呼ばれる類の音楽でした。  初めて聞いたとき、あの特徴的なシンセフレーズに一発で虜になり「何この音楽?!」と大興奮してました。これまで聴いてきたTMやゲーム音楽やダンスミュージックとは一線を画す、シリアスなようで何気にバカっぽくて痛快でカッコいい曲だと感じ、こういう曲ってどう探したら聴けるんだ?とは思ったものの、買ってきたテープには曲名と名前しか載ってないし、ジャンルもわかんないし、当時はインターネット自体一般的ではなかったので、気にはなっていたもののしばらくはほったらかしにしていました。  ですが、     後日 次兄の方が「このCDヤベえぞ」と持ってきた「JULIANA'S TOKYO」にその答えがありました。日本ではいわゆる「ジュリアナ系」とされる音楽だったわけですね。そんなわけで、そのCDシリーズの中で「ANASTHASIA」(T99)とか「Out of space」(the prodigy)なども出会いました。  その頃の日本のポップスシーンといえば、いわゆる「ビーイング系」と言われるバンド等が大活躍。WANDSやT-BOLANやZARDなどがカウントダウンTVでヘビーローテーションされている時期です。僕はどうにもそっちの曲にはなじむことが出来ず、ついに中学生らしい「日本のポップスなんて聴いてらんねえよ」こじらせが大爆発します。いや当時のB'zもビーイング一派だったんですけどねえ。  中学生らしいこじらせというより単に馴染めなかったというくらいの理由で、この頃はTMNにB'zに筋少にジュリアナとなんだかよくわかんない振り幅で曲を聴き漁ります。  で、この頃に僕にとっての重要な出会いの一つがありました。僕がラジオジャックリスナーの友達とラジオの話題で盛り上が...

僕のオタク・サブカル思い出(9)

  1991年、中学校に上がっても真面目に授業を受け続けたものの、数学に完全についていけなくなり、徐々に成績が悪くなっていきます。相変わらずゲームは好きでしたが、特に友達が増えるでもなく、1年生のときはぼんやり過ごすだけでした。  中学時代の最初のトピックは「初めて音楽のライブを観に行く」でした。偶然TMNのEXPOツアーとB'zのIN THE LIFEツアーのそれぞれ最終日のチケットをゲットすることが出来たのです。TMNはずっと追いかけていたので念願の初ライブ参加、しかも初めての音楽ライブだったのでめちゃくちゃテンション高かったんですが、B'zは一応手元に「RISKY」と「IN THE LIFE」はあったもののそこまでハマってはおらず、まあ曲は好きだしとりあえず観てみるかーというノリでした。  まず、TMNのEXPOツアーは1994年のTMNプロジェクト終了宣言前に行われた最後のツアーでした(しかもこの記事書くために改めて確認したら、ツアーの後に行われた特別編成のライブだったようです) 公演開始のアナウンスのあとに突然大音量のシンセを浴びせかけられ、「Crazy for you」の「ステージの上からサインを送るよ」のセリフのくだりにかぶせるようにソファーに座った宇都宮隆がせり上がりで登場したところで完全に心が持っていかれましたね・・・いやあカッコよかった。  当然全部通して最高だったんですけど、印象的だったのは途中のフォークパビリオンのコーナーで演奏されたアコギのみの「さよならの準備」と、そのコーナー終わりあたりで「浅倉大介がそろそろ自分のユニットでデビューするんです」というアナウンスでしたね(それが後のACCESSでした。デビューシングルのMVでショルダーキーボード持って演奏する姿に感動したなあ)  それ以降、TMNは活動がかなり少なくなってしまい、小室哲哉はYOSHIKIと日本一病弱なバンドと自称したV2やtrfのプロデュースなどでは見かけるものの、1年に1枚シングルが出るかなあという状態が続きます(そんで94年の終了宣言につながります)  一方でB'zの方は全然期待しないまま観に行ったんですけど、これがもう素晴らしいのなんの。ツアー最終日でコンベンション劇場の2階席から観ていたんですけど、全体を通して途切れることのない圧倒的なパフォー...

僕のオタク・サブカル思い出(小学生編の書き洩らし補足編)

  小・中・高・大人以降でブロックに分けて書こうと思ったのに後で思い出したやつが結構あったので、そういう細かい話を拾い上げていく記事です。小学生編で書くの忘れてたけどくっつけるほどでもないなあという話題をまとめています。